MUKURO・黙示録篇-19 (魔の狂宴Ⅲ)
真夜中の絶叫に、飯沼は目を覚ました。となりのベッドで舘岡は変わりなく眠っていた。空耳か? あるいは夢だったか――そんな考えが浮かぶと同時に、次なる悲鳴が響き渡り、飯沼は廊下に飛び出た。だが暗がりが広がっているだけで、何が起こっているのかはわからない。
「おい」
と舘岡に声をかけた。数秒後に、舘岡が目覚めた気配がした。「このホテルで、何かが起きているぞ」
廊下に充満する闇の向こう側から、何かが動く気配があった。ドドド、と地鳴りのような音が聞こえ、飯沼は暗闇に目を凝らした。チチッ――
それは小さく黒い塊であった。床を素早く這っている。それもひとつではない。2、3と動く小さな影を認めたと思ったら、さらに10、20という影が暗がりから出現した。(鼠だ)とわかった頃には100近い数が廊下を駆け抜けていた。
「やばい」飯沼は鼠が侵入してこないように部屋のドアを閉めた。「物凄い数の鼠がいる。本物の鼠かどうか――。あれも化け物の一種かもしれない」
両手が小刻みに震えていた。数々の化け物と遭遇しても生き延びてきた飯沼が、ただの鼠の群れに恐怖している。むしろ多くの危険を潜り抜けてきたからだろうか、本能が異常事態を悟っていた。得体のしれない恐怖が静かに両脚に絡みつき、もぞもぞ這いあがってくるのを感じた。何かが起こっている。これまでとは違う、何かが。しかし何が起こっているのかがわからない。嫌な予感ばかりが全身を駆け巡る。
突然、背後に気配を感じて振り返った。赤い甲冑――。鎧武者が立っている。どうして。驚きのあまり飯沼は本気で心臓が止まるかと思った。そして、(殺される――)とすべてを諦めていた。この距離では、もうどうすることもできない。鎧武者は持っている刀で自分を斬り殺すだろう、と飯沼は直感した。面頬の隙間からは闇しか見えない。目があるべきところがぽっかりと穿たれているかのようだった。
「……おい、どうした。大丈夫か」
呼びかけられて、飯沼はベッドの横に立つ舘岡を見た。心配そうな表情を浮かべている。
「あ、れ……?」
気付けば、すぐ目の前にいたはずの鎧武者の姿は消えていた。飯沼は自分の目を疑い、何度も部屋のなかを見回した。けれども舘岡以外に誰もいない。何の姿もなかった。あれは何の幻だったのか。だが幻にしては圧倒的な存在感だった。
「本当に大丈夫か?」
飯沼は軽く眩暈がして、眉間を揉んだ。「大丈夫だ」
「それはともかく、何か大変なことが起きている気がする。単なる勘だが、妙に胸騒ぎがする」
***
美琴がベッドにいないことに気付いて、酒井真美は自室として使っている部屋を出た。ここ<キャッスル>には、まだ美琴には教えていない暗部がある。今はひとりで出歩いてほしくはなかった。何事もなければいいけれど……。
ライトを片手に<キャッスル>の廊下を歩いた。「あの部屋」の方には行っていないことを祈った。男が女をヒト以下の性奴隷としてしか扱わない「あの部屋」。真美は無意識に頬をさすっていた。青紫の痣が痛々しく残る頬。「あの部屋」のことを考えると、全身が怖気に震える。
チチッ――
何かが足下を駆け抜けていった。なんだろう? 真美がライトの明かりで探(さぐ)ると、鼠だとわかった。割合に大きな鼠だ。小さな赤い瞳を輝かせ、真美の様子を窺っているように見えた。気味が悪く、真美は鼠を追い払おうとした。足で鼠を蹴るような動作をする。けれど逆に警戒をしてか、身動きひとつ見せなかった。
チチッ――
もう一匹鼠が現れ、真美はすこし気圧された。仲間を連れてくるとは……。
目の前にいる二匹の鼠の後方から、何かが迫ってくるのを感じた。闇だ――と思った。凝縮した闇が床を這って進んでいる。それが鼠の大群だとわかったときには、真美は悲鳴をあげて走り出していた。殺されると思った。生きたまま喰われて、悲惨な最期を迎える自分が脳裡をよぎった。そんな最期は絶対にいやだった。
真美は目についた客室のドアを開けて、室内に滑り込んだ。ドアをしっかりと閉める。施錠した上で、ドアに全体重を乗せて押さえた。ドアの向こう側から齧っているのか引っ掻いているのか、カリカリという音が聞こえた。冷たい汗が背中を流れた。
しばらくして、廊下から鼠の気配はなくなった。しかし用心に越したことはない。真美はドアを開けることはせず、背中を預けて座り込んだ。
部屋のベッドに誰かが寝ているのが見え、ここがタヅカの眠る部屋だということに気付いた。こういった状況で、包帯だらけのタヅカと二人っきりというのはなんとも気味が悪い感じがする。まあ、鼠よりはマシかもしれないけど。
そのとき、意識不明で眠り続けているはずのタヅカの上半身が起き上がるのを見た。「ひっ」と小さく悲鳴をあげてしまった。
「意識が戻ったの……?」
おそるおそる声をかけてみるもタヅカからの返答はない。
タヅカがゆっくりとベッドをおり、しっかり自分の二本足で立った。全身くまなく覆った包帯がやはり不気味だ。その白い布の下が、もぞもぞと動いていることに真美は気付いた。
「だ、大丈夫ですか?」
やはりタヅカの返事はない。腕の包帯の隙間から何かがぽたりと床に落ちた。米粒のような白い塊が小さく動いている。
(蛆だ……)
それは一匹だけではなかった。タヅカの包帯の下がさざ波が打つように蠢き、ぽたぽたと白い蛆が床に落ちている。その様子に真美は唖然とするしかなかった。肉が腐ってでもいるのかと疑った。
さらに恐ろしかったのは、包帯の下から今度は小さな黒い塊が這い出してきたときだった。それは蝿だった。蛆の成虫。羽化したてという感じではない真っ黒な体が、ヴヴヴと羽音を立てて飛び立った。それが何十何百という数に達し、タヅカはあっという間に全身が蝿の黒い体で覆われてしまった。そして「う゛ぉおおおおおおおお」という野太い叫びをあげた。タヅカの大きく開いた口から百を超える蝿が溢れ出し、真美は悲鳴をあげて部屋から逃げだした。
同時に、部屋に充満して行き場を失っていた夥しい数の蝿の群れが、ドアを抜けて飛び出していった。
「おい」
と舘岡に声をかけた。数秒後に、舘岡が目覚めた気配がした。「このホテルで、何かが起きているぞ」
廊下に充満する闇の向こう側から、何かが動く気配があった。ドドド、と地鳴りのような音が聞こえ、飯沼は暗闇に目を凝らした。チチッ――
それは小さく黒い塊であった。床を素早く這っている。それもひとつではない。2、3と動く小さな影を認めたと思ったら、さらに10、20という影が暗がりから出現した。(鼠だ)とわかった頃には100近い数が廊下を駆け抜けていた。
「やばい」飯沼は鼠が侵入してこないように部屋のドアを閉めた。「物凄い数の鼠がいる。本物の鼠かどうか――。あれも化け物の一種かもしれない」
両手が小刻みに震えていた。数々の化け物と遭遇しても生き延びてきた飯沼が、ただの鼠の群れに恐怖している。むしろ多くの危険を潜り抜けてきたからだろうか、本能が異常事態を悟っていた。得体のしれない恐怖が静かに両脚に絡みつき、もぞもぞ這いあがってくるのを感じた。何かが起こっている。これまでとは違う、何かが。しかし何が起こっているのかがわからない。嫌な予感ばかりが全身を駆け巡る。
突然、背後に気配を感じて振り返った。赤い甲冑――。鎧武者が立っている。どうして。驚きのあまり飯沼は本気で心臓が止まるかと思った。そして、(殺される――)とすべてを諦めていた。この距離では、もうどうすることもできない。鎧武者は持っている刀で自分を斬り殺すだろう、と飯沼は直感した。面頬の隙間からは闇しか見えない。目があるべきところがぽっかりと穿たれているかのようだった。
「……おい、どうした。大丈夫か」
呼びかけられて、飯沼はベッドの横に立つ舘岡を見た。心配そうな表情を浮かべている。
「あ、れ……?」
気付けば、すぐ目の前にいたはずの鎧武者の姿は消えていた。飯沼は自分の目を疑い、何度も部屋のなかを見回した。けれども舘岡以外に誰もいない。何の姿もなかった。あれは何の幻だったのか。だが幻にしては圧倒的な存在感だった。
「本当に大丈夫か?」
飯沼は軽く眩暈がして、眉間を揉んだ。「大丈夫だ」
「それはともかく、何か大変なことが起きている気がする。単なる勘だが、妙に胸騒ぎがする」
***
美琴がベッドにいないことに気付いて、酒井真美は自室として使っている部屋を出た。ここ<キャッスル>には、まだ美琴には教えていない暗部がある。今はひとりで出歩いてほしくはなかった。何事もなければいいけれど……。
ライトを片手に<キャッスル>の廊下を歩いた。「あの部屋」の方には行っていないことを祈った。男が女をヒト以下の性奴隷としてしか扱わない「あの部屋」。真美は無意識に頬をさすっていた。青紫の痣が痛々しく残る頬。「あの部屋」のことを考えると、全身が怖気に震える。
チチッ――
何かが足下を駆け抜けていった。なんだろう? 真美がライトの明かりで探(さぐ)ると、鼠だとわかった。割合に大きな鼠だ。小さな赤い瞳を輝かせ、真美の様子を窺っているように見えた。気味が悪く、真美は鼠を追い払おうとした。足で鼠を蹴るような動作をする。けれど逆に警戒をしてか、身動きひとつ見せなかった。
チチッ――
もう一匹鼠が現れ、真美はすこし気圧された。仲間を連れてくるとは……。
目の前にいる二匹の鼠の後方から、何かが迫ってくるのを感じた。闇だ――と思った。凝縮した闇が床を這って進んでいる。それが鼠の大群だとわかったときには、真美は悲鳴をあげて走り出していた。殺されると思った。生きたまま喰われて、悲惨な最期を迎える自分が脳裡をよぎった。そんな最期は絶対にいやだった。
真美は目についた客室のドアを開けて、室内に滑り込んだ。ドアをしっかりと閉める。施錠した上で、ドアに全体重を乗せて押さえた。ドアの向こう側から齧っているのか引っ掻いているのか、カリカリという音が聞こえた。冷たい汗が背中を流れた。
しばらくして、廊下から鼠の気配はなくなった。しかし用心に越したことはない。真美はドアを開けることはせず、背中を預けて座り込んだ。
部屋のベッドに誰かが寝ているのが見え、ここがタヅカの眠る部屋だということに気付いた。こういった状況で、包帯だらけのタヅカと二人っきりというのはなんとも気味が悪い感じがする。まあ、鼠よりはマシかもしれないけど。
そのとき、意識不明で眠り続けているはずのタヅカの上半身が起き上がるのを見た。「ひっ」と小さく悲鳴をあげてしまった。
「意識が戻ったの……?」
おそるおそる声をかけてみるもタヅカからの返答はない。
タヅカがゆっくりとベッドをおり、しっかり自分の二本足で立った。全身くまなく覆った包帯がやはり不気味だ。その白い布の下が、もぞもぞと動いていることに真美は気付いた。
「だ、大丈夫ですか?」
やはりタヅカの返事はない。腕の包帯の隙間から何かがぽたりと床に落ちた。米粒のような白い塊が小さく動いている。
(蛆だ……)
それは一匹だけではなかった。タヅカの包帯の下がさざ波が打つように蠢き、ぽたぽたと白い蛆が床に落ちている。その様子に真美は唖然とするしかなかった。肉が腐ってでもいるのかと疑った。
さらに恐ろしかったのは、包帯の下から今度は小さな黒い塊が這い出してきたときだった。それは蝿だった。蛆の成虫。羽化したてという感じではない真っ黒な体が、ヴヴヴと羽音を立てて飛び立った。それが何十何百という数に達し、タヅカはあっという間に全身が蝿の黒い体で覆われてしまった。そして「う゛ぉおおおおおおおお」という野太い叫びをあげた。タヅカの大きく開いた口から百を超える蝿が溢れ出し、真美は悲鳴をあげて部屋から逃げだした。
同時に、部屋に充満して行き場を失っていた夥しい数の蝿の群れが、ドアを抜けて飛び出していった。
<作者のことば>
今回のタヅカのシーンは、結構前から書くのを決めていたシーンなのですが、実際に書いてみるとなかなか難しくて困りました。
最初(もう何年も前のことだ…)は、口から蝿が出てきて全身を覆うだけのイメージだったのですが、映画のグリーンマイルでそういうのなかった? と思い、少しアレンジしてみました。結果、包帯の下から這い出てくる方がホラー感は強くなったかも。
前回の「男」が城田を襲うシーンも、ずっと書きたいと思っていたんですが、やっぱり実際に書くのは大変でした。どうしてもイメージ通りにいかなくて残念です。何年もイメージだけはあったシーンなので、もう少しうまいことやりたかったです……。
といった感じで、実は「魔の狂宴」に入ってからは地獄篇の頃から書きたいと思っていた部分になるので、感慨もひとしおです。
何年も抱き続けていたイメージをうまく書けないことの歯痒さもありますが、継続して書き続けてこれなかった自分のせいかなとも思っています。中断せずに書き続けていれば、技術や表現もまた違っていたのかもしれません。
その後、ストーリーは少しずつ変更が加わっていますが、映像的なイメージは地獄篇のとき書きたかったものを極力採用しながら書こうと思っています。でも今のストーリーに捻じ込むのがすこし大変だったり(苦笑)
それはともかく、骸はいつ再登場するんでしょうね…。
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