奇怪探偵・有島奇亜人≪壱≫
そこには男が立っていた。
その男は小柄という以外に何といった特徴もなく、あまり人には覚えてもらえない性質(たち)である。しかしそれはあくまで「他人」がということで、まさか「自分」が自分を忘れてしまうなんてことは思ってもみなかったろう。
男は自分のことを忘れてしまっていた。自分がどこの誰であるかを忘れていた。ああ、自分は何者なんだろう。男は思った。そしてここはどこだ? と男は今自分が立っている場所を確認する。目の前にはドアがあり、それにはこう書いてあった。
『有島探偵事務所』
探偵。小説などのフィクションの世界以外ではあまり馴染みのないこの言葉に彼はどう思っただろう。自分は何故こんなところにいるのだ? その一念のみである。
男は恐る恐るその『有島探偵事務所』と書かれたドアのノブを回し、押してみた。そして中に入ってみると、そこには誰もいない。留守か? しかし仮にも探偵事務所がこれほどまでに無用心でいいものだろうか。
そう男が思っていたときに、うう、という唸り声がした。一体何かと声の方に目を遣ってみると、薄汚れたソファの上で一人の男が寝ているではないか。男は少し躊躇(ためら)いもしたが、思い切って声を掛けてみることにした。
「あの…すみません。」
寝ている男はぴくりともしない。
「あのぅ…。」
男は鼾(いびき)までかいている。
「あのぉ…。」
三度目の問い掛けにやっと男は目を見開いた。そして部屋にいる知らない男に視線を向ける。
「何?」
「いや、その、あのぅ、そのですね、いきなりで申し訳ないんですが、私のことを知りませんか?」
寝起きの男はぽりぽりと頭を掻きながらその問いに答えた。
「知らないな。」
もしかすると自分の正体がわかるかもしれないと思っていた男はがっくりと肩を落とした。
「依頼か?」
少しばかり目に掛かるほどの黒髪が寝癖でボサボサとなっている、無精髭(ぶしょうひげ)の目の前の男の問いに自分がわからぬ男は少しだけ戸惑った。
しかし入ってきたドアに書かれていた文字を思い出して、自分が探偵に依頼をしに来た客だと訊かれていることに気付く。
「いえ…違います。」
そう言いつつ、男は見た目はだらしがないが、目の前にいるこの男こそがこの探偵事務所の探偵、有島なのだろうと判断した。
「じゃあ何?」
その有島の問いに男は困ってしまった。じゃあ何なのだろう? 自分は自分のことがわかるかもとさっきのドアをくぐった。それをどう説明すればよいのやら。
「あの、それがですね、実を言いますと僕は自分がどこの誰で何者なのかがわからないのです。」
男のいきなりの告白に、有島はぽかんとしている。それも当たり前の反応といってしまえば、それも仕方あるまい。
「つまり、なんというか、所謂(いわゆる)、記憶喪失というものでしょうか?」
「でしょうかって訊かれても困るよ。それを知りたいのなら医者に行け。それともそれを知りたいという依頼か?」
最後のは冗談なのかがよくわからないが、有島の言う通りだった。こんなことを訊かれた方が困るのだ。そしてそれを解決するには医者に行った方がいいのだろうと男は思った。
「しかし、医者にと言っても、僕は自分を証明するものがないんです! 財布も持っていないようだし、家もわからない。どうやって診察を受ければいいんですか?」
「そんなことは知らないよ。だったら警察にでも行けばいいじゃないか。」
なるほど警察か。さすがは探偵、理に適(かな)うことを言う。いや、自分が考え足らずなだけか。男は自分の軽率さに反省をした。
「ここから一番近い交番はどこでしょう?」
「それは依頼か?」
「は?」
「それは依頼かと訊いたんだ。交番の場所を知りたいという依頼かい?」
この男はふざけているのだろうか。そう男は思ったが、すぐにその考えを改めた。この有島という探偵の眼は真剣そのものだ。この男、本気でそう言っているのだ。
「あの、依頼じゃないと教えてもらえないんでしょうか?」
「当たり前だよ。ここは探偵事務所だ。何かが知りたいから俺に依頼をする。そして俺がそれを調べる。それが俺の仕事だよ。」
この探偵の言っていることは無茶苦茶だが、男は納得されそうになった。それはその男の言ったことが、一応は筋が通っているように聞こえるからである。しかしながら矢張(やは)り無茶苦茶だ。
「さあ、俺を雇うのか? どうなんだ?」
この我儘(わがまま)過ぎる探偵など放っておいて、他で訊けばいい。男は自分にそう言い聞かせる。そこらへんにいる道行く人にでも訊けばいいさ。
「それとも何かい? 依頼は交番の場所を知りたいんではなく、自分が誰なのかって方か?」
この探偵を諦めて外に出ようと決意したはずのその男は、有島の一言にぴくりと耳を寄せた。
「それはどういう意味ですか?」
「どうってそのままだろう。この俺がお前が誰なのかを調べて教える。それだけだ。それが俺の仕事なのだから。」
「わかるんですか?」
「調べてみなきゃわかるものもわからないさ。」
いや、でも、男は思った。交番まで行けば警察が調べてくれるだろう。それも無償で。その方が賢い選択に決まっている。
「しかし僕にはお金がありません。」
「だったら俺が雇ってやろう。俺の助手になれ。それで依頼料分の仕事をしたら俺がお前が誰なのかを調べてやる。」
なんて無茶苦茶なんだ。いくらなんでもひどすぎる。しかしそう思いつつも男は自分の意思と反対の言葉を呟いた。
「お願いします。」
男は自分の言った言葉を聞いて、我が耳を疑った。
「いいだろう。しかし名前がないと呼ぶのに苦労するな。よし、今からお前は名無しの権兵衛だ!」
「…名無しの権兵衛?」
「そうだ。名無 権兵衛。お前を呼ぶには打ってつけの名だろう?」
男は満足げにそう言い放った。
その男は小柄という以外に何といった特徴もなく、あまり人には覚えてもらえない性質(たち)である。しかしそれはあくまで「他人」がということで、まさか「自分」が自分を忘れてしまうなんてことは思ってもみなかったろう。
男は自分のことを忘れてしまっていた。自分がどこの誰であるかを忘れていた。ああ、自分は何者なんだろう。男は思った。そしてここはどこだ? と男は今自分が立っている場所を確認する。目の前にはドアがあり、それにはこう書いてあった。
『有島探偵事務所』
探偵。小説などのフィクションの世界以外ではあまり馴染みのないこの言葉に彼はどう思っただろう。自分は何故こんなところにいるのだ? その一念のみである。
男は恐る恐るその『有島探偵事務所』と書かれたドアのノブを回し、押してみた。そして中に入ってみると、そこには誰もいない。留守か? しかし仮にも探偵事務所がこれほどまでに無用心でいいものだろうか。
そう男が思っていたときに、うう、という唸り声がした。一体何かと声の方に目を遣ってみると、薄汚れたソファの上で一人の男が寝ているではないか。男は少し躊躇(ためら)いもしたが、思い切って声を掛けてみることにした。
「あの…すみません。」
寝ている男はぴくりともしない。
「あのぅ…。」
男は鼾(いびき)までかいている。
「あのぉ…。」
三度目の問い掛けにやっと男は目を見開いた。そして部屋にいる知らない男に視線を向ける。
「何?」
「いや、その、あのぅ、そのですね、いきなりで申し訳ないんですが、私のことを知りませんか?」
寝起きの男はぽりぽりと頭を掻きながらその問いに答えた。
「知らないな。」
もしかすると自分の正体がわかるかもしれないと思っていた男はがっくりと肩を落とした。
「依頼か?」
少しばかり目に掛かるほどの黒髪が寝癖でボサボサとなっている、無精髭(ぶしょうひげ)の目の前の男の問いに自分がわからぬ男は少しだけ戸惑った。
しかし入ってきたドアに書かれていた文字を思い出して、自分が探偵に依頼をしに来た客だと訊かれていることに気付く。
「いえ…違います。」
そう言いつつ、男は見た目はだらしがないが、目の前にいるこの男こそがこの探偵事務所の探偵、有島なのだろうと判断した。
「じゃあ何?」
その有島の問いに男は困ってしまった。じゃあ何なのだろう? 自分は自分のことがわかるかもとさっきのドアをくぐった。それをどう説明すればよいのやら。
「あの、それがですね、実を言いますと僕は自分がどこの誰で何者なのかがわからないのです。」
男のいきなりの告白に、有島はぽかんとしている。それも当たり前の反応といってしまえば、それも仕方あるまい。
「つまり、なんというか、所謂(いわゆる)、記憶喪失というものでしょうか?」
「でしょうかって訊かれても困るよ。それを知りたいのなら医者に行け。それともそれを知りたいという依頼か?」
最後のは冗談なのかがよくわからないが、有島の言う通りだった。こんなことを訊かれた方が困るのだ。そしてそれを解決するには医者に行った方がいいのだろうと男は思った。
「しかし、医者にと言っても、僕は自分を証明するものがないんです! 財布も持っていないようだし、家もわからない。どうやって診察を受ければいいんですか?」
「そんなことは知らないよ。だったら警察にでも行けばいいじゃないか。」
なるほど警察か。さすがは探偵、理に適(かな)うことを言う。いや、自分が考え足らずなだけか。男は自分の軽率さに反省をした。
「ここから一番近い交番はどこでしょう?」
「それは依頼か?」
「は?」
「それは依頼かと訊いたんだ。交番の場所を知りたいという依頼かい?」
この男はふざけているのだろうか。そう男は思ったが、すぐにその考えを改めた。この有島という探偵の眼は真剣そのものだ。この男、本気でそう言っているのだ。
「あの、依頼じゃないと教えてもらえないんでしょうか?」
「当たり前だよ。ここは探偵事務所だ。何かが知りたいから俺に依頼をする。そして俺がそれを調べる。それが俺の仕事だよ。」
この探偵の言っていることは無茶苦茶だが、男は納得されそうになった。それはその男の言ったことが、一応は筋が通っているように聞こえるからである。しかしながら矢張(やは)り無茶苦茶だ。
「さあ、俺を雇うのか? どうなんだ?」
この我儘(わがまま)過ぎる探偵など放っておいて、他で訊けばいい。男は自分にそう言い聞かせる。そこらへんにいる道行く人にでも訊けばいいさ。
「それとも何かい? 依頼は交番の場所を知りたいんではなく、自分が誰なのかって方か?」
この探偵を諦めて外に出ようと決意したはずのその男は、有島の一言にぴくりと耳を寄せた。
「それはどういう意味ですか?」
「どうってそのままだろう。この俺がお前が誰なのかを調べて教える。それだけだ。それが俺の仕事なのだから。」
「わかるんですか?」
「調べてみなきゃわかるものもわからないさ。」
いや、でも、男は思った。交番まで行けば警察が調べてくれるだろう。それも無償で。その方が賢い選択に決まっている。
「しかし僕にはお金がありません。」
「だったら俺が雇ってやろう。俺の助手になれ。それで依頼料分の仕事をしたら俺がお前が誰なのかを調べてやる。」
なんて無茶苦茶なんだ。いくらなんでもひどすぎる。しかしそう思いつつも男は自分の意思と反対の言葉を呟いた。
「お願いします。」
男は自分の言った言葉を聞いて、我が耳を疑った。
「いいだろう。しかし名前がないと呼ぶのに苦労するな。よし、今からお前は名無しの権兵衛だ!」
「…名無しの権兵衛?」
「そうだ。名無 権兵衛。お前を呼ぶには打ってつけの名だろう?」
男は満足げにそう言い放った。
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