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みやび萬紅堂。
かつて小説に似たものが書かれていた所、その残骸。
【完全版】MUKURO・煉獄篇‐2 (日常の崩壊)
 血が滲んで、少しだけ沁みた。どこまでも走り続けた亮太郎は体力が尽きて、ついには躓き、アスファルトの上に転がっていた。見上げる空は青く、清々しくて、さっき化け物を見たことが嘘のようにそこには「いつもの空」があった。まるで現実感がない空だ。本当に現実感がないのはさっきの化け物の方のはずだというのに。
 亮太郎はゆっくりと起き上がり、ここがどこなのかとあたりを見回した。知っているようで、知らない場所だ。何度か通ったことがあるのかもしれないが、その程度のおぼろげな記憶しかなく、実際どこなのかわからない場所。
 母親は無事なのだろうかという気持ちとこれから自分はどうすればいいのだろうという気持ちで、亮太郎は涙が溢れた。洟をすすり、とにかく歩き続ける。だれか、だれかいませんか…
 全くといっていいほど人の気配はなかった。
 自分の足音がやけに耳に障る。呼吸もうるさくて、息を潜めた。静けさが落ち着かない。
 そこにヒュッと風を切るような音が聴こえた。ヒュッ、ヒュゥゥゥ。
 気付けば目の前に魚が浮いていた。何の魚かはわからない。ズブッと魚の額から角のようなものが突き出す。次の瞬間には頭部が醜く膨れ四方八方から口が生えてきた。もはや最初の姿形を留めていない。異形の魚を前に、亮太郎は再び走った。ヒュウウウ――風を切る音で、魚が追ってきているのがわかる。亮太郎は走った。できることはそれしかなかった。走って走って走り続け、逃げ続けるしか生き延びる方法はなかった。
 ふと前方に何かの姿が見えてきた。ぴょこぴょこ、と歩くそれは一見すると人のようでもあったが、裸で肌は青白く、口はとんがった耳のあたりまで裂けている。眼はぎょろりと大きかった。背はそれほど大きくなく、小鬼のような印象を受ける。複数のそれは亮太郎の方へぴょこぴょこと独特の動きで近付いてきていた。
 亮太郎は振り返り、後方を確認した。あの異形の魚の姿は消えていた。前方からは小鬼が近付いてきている。少し迷って、亮太郎はすぐ横にあった雑居ビルに逃げ込んだ。
 何かのオフィスらしいところに入るとデスクの下にもぐり込んで隠れ、息をひそめた。耳を澄ますと足音が聴こえる。それはゆっくりと近付いてきていた。
 口元を押さえていた手が震える。
 気配がすぐ近くまで迫っていた。
 デスクの上に何かが乗った音。
 亮太郎は悲鳴をあげたかった。大声で泣いてしまいたかった。それでも懸命に堪えようとする。
 にゅっ、と青白い顔が亮太郎の目の前に現れた。不気味に裂けた口が笑っているように見える。
 亮太郎はデスク下から飛び出して、駆けた。だが、小鬼の腕が亮太郎を掴まえる。それを精一杯の力で振り解いて、再び駆け出した。小鬼たちも亮太郎を追いかけて走り出す。
 小鬼たちが笑う。
 まるで獲物を追うのを愉しんでいるかのように。
 そこに一台の自動車(くるま)が突っ込んできた。

 ***

 自動車に衝突され、あるいはタイヤに巻き込まれ、数匹の小鬼がただの肉塊に変わった。突然現れた自動車の運転席を恐るおそる覗き見てみるとそこには首のない人間の体がハンドルに寄りかかっていて、亮太郎は思わず悲鳴を上げて逃げ出した。
 もう走る体力も気力も残ってはいない。ただ恐怖心だけが亮太郎を走らせた。
 前方に、男の姿が見える。生きている人間だ。近付こうとして、亮太郎はふと足を止めた。男の足元に誰かが倒れている。女性のようだった。そして男の手には刃物。刃渡り20センチはあろうかという包丁だ。
 包丁は血に塗れていた。
 男が他人の気配に気付き、亮太郎の方を見遣る。
 尋常ではない貌(かお)だった。眼は血走り、肌は蒼白。人のようで、人ではない。亮太郎の目には先ほどの小鬼たちと変わらなく映った。思わず後ずさりする。
 亮太郎には聞こえないほどの小声で、男はぶつぶつと何かを言っていた。そしてゆっくりと亮太郎の方へと歩み寄り始めた。
 あまりの恐怖に、亮太郎の脚は動かない。それどころが震えている。震えが止まらない。
 男の持つ包丁の刃先から血が滴り、点々と地面を赤く染めた。
 ゆっくり、ゆっくりと男は歩み寄る。
 ゆらゆらと揺れるような歩き方だった。
 目の焦点は合っているようにも、合っていないようにも見えた。その目に亮太郎が見たのは「無」だ。何もない。空っぽの目。あるいはそれは「絶望」なのかもしれない。男の中で何かが壊れてしまったのだ。そう、この男は壊れている。亮太郎は恐怖した。今までこのような人間を知らなかった。だから怖かった。あの化け物と同じく、未知の存在だった。
 ついに男は亮太郎の前まで来ると、じっくりと亮太郎を見た。品定めするように。上から下へ、下から上へ。男は見た。だが、そこに一切の感情は感じられない。そこにあるから見ている。ただそれだけのようでもあった。
 男は当然のように包丁を振り上げてそして――

 ***

 野坂 大吾が意識を取り戻したのは愛車の運転席だった。作動したエアバッグが野坂の目の前にあった。(何がどうなったんだ……)と野坂は思い、そして徐々に思い出し始めた。そうだ、自分は事故に遭ったんだ。確か前の車が急にブレーキをかけてそれで――
 考えると頭がずきりと痛んだ。触れてみると額から血が出ていて指先を赤く濡らした。
 ドアを開けて赤のエクストレイルを降り、野坂はよろめきつつも事故を起こした前の車に近付いた。運転席を覗くと誰もいない。ドアは開きっ放しだった。
(どういうことだろう?)
 そこで野坂は運転席のドアに何かが付着していることに気付き、近寄ってよく見てみる。ぬるりとした透明な粘液だ。それに生臭い。これは何なのか? その答えは出ぬまま野坂はあたりを見回した。誰の姿もない。街は静寂に包まれ、まるで街そのものが喪に服しているかのようだった。
 どうしようもないので彼はポケットから携帯電話を取り出し、110とプッシュして通話ボタンを押したが、電話が通じない。110が通話中で繋がらないということは普通ならば考えられず、野坂は何かがおかしいと思い始めた。
 仕方がなく愛車のエクストレイルに戻り、破損状況を確認したが、フロント部分が完全に潰れてしまっている。これは直せるだろうか。あるいは直すより新しい車を買った方が安くつくかもしれないな、などと思った。
「これで助かったのは奇跡かもな」
 その言葉は静かに響き、気分はまるで世界で最後の生き残りだ。確かそういう映画があったような気もするな、と野坂は思いながら愛車のシートに腰をおろした。
(さて、これからどうするべきか)
 警察に繋がらなければ、やはり職場に連絡を入れておくべきだろう。野坂は再び携帯電話を取り出して、登録された職場の番号を呼び出す。彼は自衛官だった。父も自衛官で、自然と自分も同じ道を選んで高校を卒業と同時に自衛隊に入隊した。野坂にとって父は憧れだった。厳しいが、優しい父親だった。どんなことも行動で示す人。父を慕う人も多く、家にはよく父の同僚が遊びにきていたことを思い出す。その父も3年前に癌で亡くなった。日頃から健康には気を遣っていた父だが、発覚したときにはもはや手の施しようがないほど癌は体を蝕んでいた。
「人はいずれ死ぬ」そう父は言った。「だが、死んでも残るものもある。たとえば、お前がそうだ。――お前は俺が生きた証だよ。俺がいたからお前がいる。そして、お前もいつか自分の子を持つだろう。そうして人は生きた証を積み重ねていくんだ。誰もが生命(いのち)という歴史を背負って生きているんだ。そしてお前はそれを守れ。国のためではなく、人のために守らなきゃならん。こういう時代だ。いつそういうときがきてもおかしくはない。そのときはお前が体を張るんだぞ。自分の生きた証を残すためにも、な」
 父は自衛官という職業に誇りを持った人間だった。自衛官の誰もがそういうわけではないが、自分は父のような自衛官になりたいと純粋に思った。今はまだ妻も子もいないが、いずれ家庭を持つ日が来るかもしれない。そのときは、父の言葉を我が子に伝えたいと思っていた。自衛官になるかはわからないが、それでも伝えておきたかった。それが、父が生きていた証なのだろうと野坂は思っているからだ。
 呼び出しのコール音が聞こえ始めたときに、野坂は異様な気配を感じた。最初はそれが何なのかわからなかったが、すぐに嗅覚が反応した。あたりが生臭い。野坂は愛車から飛び降りて、あたりを見回した。そして、信じられないものを目にする。
 巨大な塊。
 自分の数倍はある大きさのそれは、ブヨブヨとゲル状で出来ていて姿形は巨大で、醜悪なタコのようであった。丸い体に、うねうねとした触手のような脚が幾本も生えている。半透明の紫がかったボディの中心にはぎょろりとした目玉がひとつ、獲物を探すように蠢いていた。
 野坂は戦慄した。今まで見たこともないモノが目の前にいる。咄嗟に、彼の本能が警鐘を鳴らした。
 そして、醜い化け物と野坂の目が不意に合った。
 野坂は、化け物と目が合った次の瞬間にはすでに走り出していた。いつもの訓練で、走ることには慣れている。全力で走れば逃げ切れると本能的に感じていた。それに相手は見るからに動きが鈍そうである。走り続ければ振り切れる! それは半ば確信だった。
 どれだけ走り続けただろうか。さすがの野坂も息があがり、全身からは汗が噴き出ていた。額から流れる汗が目に入って沁みた。後方を確認すると何の影もない。どうやら逃げ切ることができたようだった。
 無性に喉が渇いていた。コンビニが見えたので店に入るとそこにも誰の姿もなく、やや困惑しながらも冷蔵棚からスポーツドリンクを取り出して半分ほど一気に喉に通す。
(一体、何がどうなっているっていうんだ……)
 ザザ、ザザザ……。何か物音を野坂の聴覚が捉えた。全身に緊張が奔る。警戒しながら、野坂はゆっくりとコンビニを出た。ザザザ、ザザ……。(まさかあの化け物なのか?)
 野坂がそれを見たとき、最初は人かと思った。だが、すぐにそれは違うと気付いた。地を這うそれは腕が4本もあり、哺乳類というよりは昆虫を連想させる。そして顔。それの顔はつるりとしていて何もない。まさにのっぺらぼうだった。マネキンの顔とも思える。
 顔無しの化け物――ノーフェイスヘッドが素早い動きで接近してきた。野坂は反射的に蹴りを繰り出す。野坂の蹴りはノーフェイスヘッドの頭に当たり、ノーフェイスヘッドはそのまま吹き飛ばされて壁にぶつかった。
 ――倒せない敵ではない。
 そう確信した。見た目は化け物だが、抵抗すれば勝つ見込みはある。野坂の本能がそう告げている。
 起き上がろうとするノーフェイスヘッドに続けざまの蹴りを放った。相手が這っているため、有効なのはやはり蹴りだ。わざわざ姿勢を低くしてまで攻撃する必要はない。鋭い蹴りがノーフェイスヘッドの頭を何度も襲う。
そのうち化け物はぐったりとしたまま動かなくなった。
 息を切らしながら、野坂は目の前で倒れている化け物を見下ろした。これは何なのか。あのゲル状の化け物といい、世界は地獄と化したのか。まるで魔界に呑み込まれてしまったかのようではないか。
 ザザザ――
 また先ほどと似た音が野坂の耳に届いた。
 建物の壁に新たなノーフェイスヘッドが2匹。そしてアスファルトの地面にも1匹這っていた。
 ――いくらなんでもこの数は相手にできない。
 野坂は再び走った。行く先はわからない。そして、この先に何が待つのかもわからなかった……



<作者のことば>
煉獄篇4~7話をまとめた【完全版】2話です。
前回はその話で全部区切ってましたが、そのまま繋げて問題なさそうだったので野坂パートだけ区切らず1つにしました。

いっそ亮太郎パートも1つにまとめてしまおうかと思ったんですが、ちょっと溜めあった方が引き込まれるかなって思ってそのまま元の1話分で区切ることに。
本来なら分けずにいくべきところだと思うし、少し加筆修正して繋げることも全然可能だったんですけど、ちょっと面倒でやめました(案外文章のリズムを崩さずに書き直すのって骨が折れる作業なんです)。

【完全版】に時間かけると煉獄篇の続きに取り掛かれませんので。

あと悩んだ点といえばサブタイトルくらいです。
【完全版】1はあっさり元の1話のサブタイトルを採用したのですが、今回は亮太郎パートが「日常の崩壊」で野坂パートが「静寂の街」というもので、どちらが内容に見合っているか難しかったです。
どちらのパートも街の静けさというものを描いているので、「静寂の街」でもいいかなって思ったのですが(言葉の響き的にはこちらが好みでした)、亮太郎視点だけではなく野坂視点からも日常が喪失われていく様がこの回の展開として主に描かれていた気がしたので「日常の崩壊」に決めました。
ちなみに「崩壊する日常、静寂する街」っていうのも考えましたが、みなさんとしてはどれが好みだったでしょうか?(笑)

実はサブタイトルって案外厄介です。

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