遺志(前編)
錆色の重々しい空だった。もうすぐ訪れる冬より一足先に現れた冷たい風に身をさらしながら、大城 春二は洋子に会うために急いだ。
思わぬ寝坊をしてしまって約束の時間を過ぎている。すでに遅れるとメールをしておいたが、早く行かないと洋子の怒る顔がありありと脳裏に浮かんだ。
赤い信号が青に変わり、春二はボーダーラインの横断歩道を一歩踏み出す。車通りの少ない車道に、けたたましいエンジン音が近付いてくるのを感じた。
春二はエンジン音のする方に顔を向けた。ブルーカラーのスポーツカーが、すぐそこに迫ってきていた。
反射的に、春二は横に飛び退き避けようとした。しかしそれをするにはどうにも遅過ぎた。
その車は、ありったけのスピードを維持したまま春二の元に突っ込んでいった。続く凄まじい破壊音。
十分後、救急車のサイレン音があたりに鳴り響いた。
***
病院。白い部屋。機械に繋がれ、眠るように目を閉じている男の姿がそこにあった。
大城 春二は交通事故でアスファルトに頭を強打し、いわゆる植物状態となっていた。それがもう3年も続いている。
その隣で大崎 洋子が春二のことを見守っていた。3年間ずっと彼に付いていて、洋子はいつか春二の意識が戻ると信じていた。しかしその兆候は全く見られていない。医者にも「期待はしない方がいい」と何度も念を押されていた。それでも彼女は春二の回復を信じた。いつか、きっと――。
「こんにちは」
病室のドアが開いた。そこから姿を見せたのは春二の兄・秋一だった。
「あ、お兄さん」
「洋子さん、毎日ありがとう」秋一は洋子の隣にパイプ椅子を置いて座った。「でも、本当にそんなに構わなくてもいいんだよ?」
「大丈夫です。なにより一緒にいてあげたいですし」
「春二も幸せ者だな」
「……いえ、わたしと会うためにこんなことになってしまって」
「そんなこと気にしなくてもいいんだよ。春二の事故はドライバーの無謀な運転が原因だったんだから。洋子さんに責任なんてないよ」
「でも…」
「もう3年も経つんだ。いつまでも春二のことで気を病んでいてはだめだよ」
ぶら提げていたコンビ二のレジ袋の中から缶コーヒーを取り出し、それを秋一は洋子に手渡した。「どうぞ」
洋子は礼を言ってプルトップを引き起こす。秋一もそれに倣って自分の缶コーヒーを開け、口をつけた。
「そうだよな、もう3年かぁ。つい先日まで春二は生きていたような気もするし、最後に会ったのはずっと前のような気もする」
「そうですね」
秋一は最後に春二と口を交わした日を思い出した。あのときの春二の言葉が今も忘れられない。「もし俺に何かあったら、そのときは洋子のこと頼むよ」
あれはどういう意味だったのだろうか。春二はあのときすでに、自分がこうなることを予測していたのだろうか。ただ春二は幼い頃からよく勘が当たるやつだったな、と秋一は思う。なんとなくそんな気がするという理由で、何度家族に影響を与えたことか。あまりに春二の勘が当たるので、家族旅行の計画は春二に日にちを占ってもらっていた。春二がその日はよくない気がするというと、決まって雨が降ったりの悪天候だったのだ。
「もし俺に何かあったら、そのときは洋子のこと頼むよ」
それはもちろん春二の代わりに秋一が洋子と付き合ってくれ、というわけではないだろう。もし春二が本当に今のこの状況を予知していたとしたならば、きっと動けない春二に縛られてしまっている洋子を、どうか解放してやってくれという意味ではないだろうか。
「――考え過ぎかな」
「え? なんですか、お兄さん」
「いや、なんでもないよ。ちょっと独り言」
自分が春二の立場だったなら、やはり洋子には自分のことはもう忘れ、自分自身の道を進んで欲しいと思うだろう。いつ意識が戻るかわからない、いや、このまま一生動けないままかもしれない人間の世話をこれからもずっとずっとしていくなんて、洋子のような若い人間のすることではない。まだいろいろな可能性がある人生だ。秋一は洋子に春二のことはもう忘れ、新たな一歩を踏み出して欲しいと思った。
「なあ、洋子さん」
「なんですか?」
「もう、ここに来るのはやめにしないか」
「――え?」
「洋子さんはまだ若いし、春二のためにその人生を潰してしまうこともないと思うんだ」
「大丈夫です。わたしはずっと春二といます」
洋子の強情も若さゆえかな、と秋一は思った。
そしてだからこそ、春二のことをもう諦めて欲しい。
「春二もきっと望んでないと思うんだ」
「なにをです?」
「洋子さんがこうやって、回復する見込みのない自分に付きっきりの人生を歩むこと」
秋一は缶コーヒーの残りを一気に飲み干して、洋子を見た。
「どうしてかな? 俺と春二が兄弟からかもしれない。なんとなく、わかるんだ。春二の思っていること」
「そんな――」
「洋子さんも憶えているだろう? 春二の勘は本当によく当たったよな。第六感ってやつ?」
「そうですね。本当に、なんでも最初から知ってるみたいでした」
「そんな春二の超能力みたいなのがさ、俺にもあるんだよ」
「秋一さんにも?」
空き缶を両手でもてあそびながら、秋一は言った。「俺は人の思いや考えが読める」
「本当に?」
「うん。ただ波長が合った人だけなんだけどね。ラジオのチューナーみたいな。あるチャンネルの人の心だけ、俺には読めるんだ」
「わたしのも?」
秋一は笑って答えた。「少しくらいなら」
「じゃあ、わたしが春二さんのそばを離れる気がないこともわかりますよね」
「だからこうして話してる」
「いくらお兄さんにそう言われても、わたし春二さんと一緒にいます」
そうだよな――秋一にはこういう展開になることが最初からわかっていた。それほど洋子の決意は固い。波長がほとんど合ってはいなく、少しの感情しか読み取れないはずの洋子の想いが、今の秋一には痛いほど伝わってきていた。
「兄弟だからか、春二とは特に波長が合ってた。だからいつも春二の考えていることはなんとなくわかってた」
「それは今も?」
「少しだけ。春二は洋子さんに自分に縛られて欲しくないと思ってる」
「もしそれが本当だとしても――」あとを秋一が引き取った。「――離れる気はない、だろ?」
「はい」
秋一は微笑んだ。どこか寂しさを漂わせながら、笑った。
洋子は本当に素晴らしい女性だ。きっと春二がこのまま一生目覚めることがなくても、彼女が息を引き取るその日まで添い遂げるだろう。それだけに、残念だった。洋子には幸せになってもらいたい。それは秋一の想いであり、同時に春二の想いでもあった。
そうだよな――秋一は春二の心を読み取ったようにひとり心中で頷き、決心を固めた。
「実は、俺はもうここに来ることはできない」
「えっ?」
「仕事の関係で、海外に行くことになったんだ」
「そんな――」
「突然こんな話をして申し訳ないけれど、もしかしたら向こうに永住することになるかもしれない」
それは、嘘だった。
でも本当にもう二度と大城 秋一がここに来ることはないだろう。それだけは秋一にも予知できる未来だった。
「だから、今後のことは洋子さんに任せることになる。母さんも随分と調子が悪いみたいだし、あまり春二のところに来てやれないだろう」秋一は洋子に向かい合い、その手を取った。「もし本当に春二と一生を供にしてくれるのなら、こいつのこと、洋子さんに任せてもいいだろうか?」
「もちろんです」
秋一でなくともわかるほど強い意志を持って、洋子は答えた。
「ありがとう」
秋一は空き缶をゴミ箱に放り、洋子に言った。「それで俺が向こうに発つ前に、本当に春二にはもうできることがないのか確かめたいんだ。だから明日、俺の知り合いの信頼できる医者に春二のことを診てもらおうと思ってる」
「そうなんですか」もしかしたら――そんな希望が洋子の心にふつふつを湧いているように、秋一には見えた。
「うん。だから明日はここに来る必要はないよ。検査には時間がかかるそうだから、明日いっぱいは春二には会えないと思う」
「わかりました。じゃあ、次はあさって来ます」
「そうして欲しい。それで俺はもうあさってには行かなきゃならないんだ。検査結果やその他のことはその知人に任せるつもりだから、あとはそいつから直接聞いてもらえるかな?」
秋一の言葉には違和感があった。何か腑に落ちない。「そうですか。わかりました」
「洋子さん。今までありがとう。それから、これからも春二のことよろしく頼むよ。とても非常識なお願いだけれど、洋子さんだったら俺も安心して任せられるから」
「任せてください。春二さんの意識が戻るその日まで、わたしが春二さんの面倒を看ます」
たくましいな、と秋一は思った。
なんて強い女性なんだろう。この人に出会えて春二は本当に幸せ者だ。こういう人は絶対に幸せにならないといけないよな――なあ、春二?
(――ああ、よろしく頼むよ兄さん)
春二の声が聴こえた気がした。――ごめんな。
秋一は洋子を残して春二の病室をあとにした。
思わぬ寝坊をしてしまって約束の時間を過ぎている。すでに遅れるとメールをしておいたが、早く行かないと洋子の怒る顔がありありと脳裏に浮かんだ。
赤い信号が青に変わり、春二はボーダーラインの横断歩道を一歩踏み出す。車通りの少ない車道に、けたたましいエンジン音が近付いてくるのを感じた。
春二はエンジン音のする方に顔を向けた。ブルーカラーのスポーツカーが、すぐそこに迫ってきていた。
反射的に、春二は横に飛び退き避けようとした。しかしそれをするにはどうにも遅過ぎた。
その車は、ありったけのスピードを維持したまま春二の元に突っ込んでいった。続く凄まじい破壊音。
十分後、救急車のサイレン音があたりに鳴り響いた。
***
病院。白い部屋。機械に繋がれ、眠るように目を閉じている男の姿がそこにあった。
大城 春二は交通事故でアスファルトに頭を強打し、いわゆる植物状態となっていた。それがもう3年も続いている。
その隣で大崎 洋子が春二のことを見守っていた。3年間ずっと彼に付いていて、洋子はいつか春二の意識が戻ると信じていた。しかしその兆候は全く見られていない。医者にも「期待はしない方がいい」と何度も念を押されていた。それでも彼女は春二の回復を信じた。いつか、きっと――。
「こんにちは」
病室のドアが開いた。そこから姿を見せたのは春二の兄・秋一だった。
「あ、お兄さん」
「洋子さん、毎日ありがとう」秋一は洋子の隣にパイプ椅子を置いて座った。「でも、本当にそんなに構わなくてもいいんだよ?」
「大丈夫です。なにより一緒にいてあげたいですし」
「春二も幸せ者だな」
「……いえ、わたしと会うためにこんなことになってしまって」
「そんなこと気にしなくてもいいんだよ。春二の事故はドライバーの無謀な運転が原因だったんだから。洋子さんに責任なんてないよ」
「でも…」
「もう3年も経つんだ。いつまでも春二のことで気を病んでいてはだめだよ」
ぶら提げていたコンビ二のレジ袋の中から缶コーヒーを取り出し、それを秋一は洋子に手渡した。「どうぞ」
洋子は礼を言ってプルトップを引き起こす。秋一もそれに倣って自分の缶コーヒーを開け、口をつけた。
「そうだよな、もう3年かぁ。つい先日まで春二は生きていたような気もするし、最後に会ったのはずっと前のような気もする」
「そうですね」
秋一は最後に春二と口を交わした日を思い出した。あのときの春二の言葉が今も忘れられない。「もし俺に何かあったら、そのときは洋子のこと頼むよ」
あれはどういう意味だったのだろうか。春二はあのときすでに、自分がこうなることを予測していたのだろうか。ただ春二は幼い頃からよく勘が当たるやつだったな、と秋一は思う。なんとなくそんな気がするという理由で、何度家族に影響を与えたことか。あまりに春二の勘が当たるので、家族旅行の計画は春二に日にちを占ってもらっていた。春二がその日はよくない気がするというと、決まって雨が降ったりの悪天候だったのだ。
「もし俺に何かあったら、そのときは洋子のこと頼むよ」
それはもちろん春二の代わりに秋一が洋子と付き合ってくれ、というわけではないだろう。もし春二が本当に今のこの状況を予知していたとしたならば、きっと動けない春二に縛られてしまっている洋子を、どうか解放してやってくれという意味ではないだろうか。
「――考え過ぎかな」
「え? なんですか、お兄さん」
「いや、なんでもないよ。ちょっと独り言」
自分が春二の立場だったなら、やはり洋子には自分のことはもう忘れ、自分自身の道を進んで欲しいと思うだろう。いつ意識が戻るかわからない、いや、このまま一生動けないままかもしれない人間の世話をこれからもずっとずっとしていくなんて、洋子のような若い人間のすることではない。まだいろいろな可能性がある人生だ。秋一は洋子に春二のことはもう忘れ、新たな一歩を踏み出して欲しいと思った。
「なあ、洋子さん」
「なんですか?」
「もう、ここに来るのはやめにしないか」
「――え?」
「洋子さんはまだ若いし、春二のためにその人生を潰してしまうこともないと思うんだ」
「大丈夫です。わたしはずっと春二といます」
洋子の強情も若さゆえかな、と秋一は思った。
そしてだからこそ、春二のことをもう諦めて欲しい。
「春二もきっと望んでないと思うんだ」
「なにをです?」
「洋子さんがこうやって、回復する見込みのない自分に付きっきりの人生を歩むこと」
秋一は缶コーヒーの残りを一気に飲み干して、洋子を見た。
「どうしてかな? 俺と春二が兄弟からかもしれない。なんとなく、わかるんだ。春二の思っていること」
「そんな――」
「洋子さんも憶えているだろう? 春二の勘は本当によく当たったよな。第六感ってやつ?」
「そうですね。本当に、なんでも最初から知ってるみたいでした」
「そんな春二の超能力みたいなのがさ、俺にもあるんだよ」
「秋一さんにも?」
空き缶を両手でもてあそびながら、秋一は言った。「俺は人の思いや考えが読める」
「本当に?」
「うん。ただ波長が合った人だけなんだけどね。ラジオのチューナーみたいな。あるチャンネルの人の心だけ、俺には読めるんだ」
「わたしのも?」
秋一は笑って答えた。「少しくらいなら」
「じゃあ、わたしが春二さんのそばを離れる気がないこともわかりますよね」
「だからこうして話してる」
「いくらお兄さんにそう言われても、わたし春二さんと一緒にいます」
そうだよな――秋一にはこういう展開になることが最初からわかっていた。それほど洋子の決意は固い。波長がほとんど合ってはいなく、少しの感情しか読み取れないはずの洋子の想いが、今の秋一には痛いほど伝わってきていた。
「兄弟だからか、春二とは特に波長が合ってた。だからいつも春二の考えていることはなんとなくわかってた」
「それは今も?」
「少しだけ。春二は洋子さんに自分に縛られて欲しくないと思ってる」
「もしそれが本当だとしても――」あとを秋一が引き取った。「――離れる気はない、だろ?」
「はい」
秋一は微笑んだ。どこか寂しさを漂わせながら、笑った。
洋子は本当に素晴らしい女性だ。きっと春二がこのまま一生目覚めることがなくても、彼女が息を引き取るその日まで添い遂げるだろう。それだけに、残念だった。洋子には幸せになってもらいたい。それは秋一の想いであり、同時に春二の想いでもあった。
そうだよな――秋一は春二の心を読み取ったようにひとり心中で頷き、決心を固めた。
「実は、俺はもうここに来ることはできない」
「えっ?」
「仕事の関係で、海外に行くことになったんだ」
「そんな――」
「突然こんな話をして申し訳ないけれど、もしかしたら向こうに永住することになるかもしれない」
それは、嘘だった。
でも本当にもう二度と大城 秋一がここに来ることはないだろう。それだけは秋一にも予知できる未来だった。
「だから、今後のことは洋子さんに任せることになる。母さんも随分と調子が悪いみたいだし、あまり春二のところに来てやれないだろう」秋一は洋子に向かい合い、その手を取った。「もし本当に春二と一生を供にしてくれるのなら、こいつのこと、洋子さんに任せてもいいだろうか?」
「もちろんです」
秋一でなくともわかるほど強い意志を持って、洋子は答えた。
「ありがとう」
秋一は空き缶をゴミ箱に放り、洋子に言った。「それで俺が向こうに発つ前に、本当に春二にはもうできることがないのか確かめたいんだ。だから明日、俺の知り合いの信頼できる医者に春二のことを診てもらおうと思ってる」
「そうなんですか」もしかしたら――そんな希望が洋子の心にふつふつを湧いているように、秋一には見えた。
「うん。だから明日はここに来る必要はないよ。検査には時間がかかるそうだから、明日いっぱいは春二には会えないと思う」
「わかりました。じゃあ、次はあさって来ます」
「そうして欲しい。それで俺はもうあさってには行かなきゃならないんだ。検査結果やその他のことはその知人に任せるつもりだから、あとはそいつから直接聞いてもらえるかな?」
秋一の言葉には違和感があった。何か腑に落ちない。「そうですか。わかりました」
「洋子さん。今までありがとう。それから、これからも春二のことよろしく頼むよ。とても非常識なお願いだけれど、洋子さんだったら俺も安心して任せられるから」
「任せてください。春二さんの意識が戻るその日まで、わたしが春二さんの面倒を看ます」
たくましいな、と秋一は思った。
なんて強い女性なんだろう。この人に出会えて春二は本当に幸せ者だ。こういう人は絶対に幸せにならないといけないよな――なあ、春二?
(――ああ、よろしく頼むよ兄さん)
春二の声が聴こえた気がした。――ごめんな。
秋一は洋子を残して春二の病室をあとにした。
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