みやび萬紅堂。
いらっしゃいませ。コメントはお気軽に。
DATE: 2010/08/30(月)   CATEGORY: MUKURO外伝
MUKURO外伝(25)
 突如、巨大な蛾の全身が変色を始めた。その体表が徐々に赤く染まっていく。まるで激昂でもしているかのように。
 鱗粉が宙に舞った。大きな翅が風を起こし、微粒子が骸に吹きつけられ、彼の躰に付着する。そのときジュッと音がした。彼の衣服に穴が開いている。皮膚も焼け爛(ただ)れたかのような様相だ。巨大蛾の鱗粉は変質を遂げ、物質を溶解させる性質に変化したようだった。
 骸は疾駆(はし)った。蛾とは反対側に。それを蛾は追行して羽ばたいた。溶解性の鱗粉が舞う。
 駆けた骸の向かう先にあるのは壁しかなかった。それでも彼は走る速度を緩めない。むしろ加速しているようである。前方の壁が迫った。彼は渾身の力を脚に込めて、跳んだ。
 彼は勢いよく、一直線に壁に向かって跳んだ。
 後方から蛾が迫ってきている。
 骸が壁にぶつかる――その直前に、彼は壁を思いっきり蹴った。
 彼はさらに高く昇(あが)った。そして蛾の上空にまで舞い上がった。
 そして彼は重力に従って下降を始める。
 巨大な蛾の背中に骸は着地した。一瞬、蛾が不意の加重によって空中でよろめく。素早く骸は蛾の翅のつけ根に手をつけた。ジュッと音を立てて彼の両手が焼かれる。それでも彼は手を離すことなく両腕に力を込めた。翅に裂け目が入る。骸はさらに力を入れて、翅を引っ張った。
 翅が中ほどまで裂けた。
 蛾はバランスを崩して落下する。必死に翅を羽ばたかせているが、もはや使い物にならなくなった片方の翅は、蛾を重力に従わせるしかなかった。そうしてコントロールを失った蛾は壁に激突して地に落ちた。
 骸は満身創痍の躰で立ち上がった。鱗粉で焼かれた皮膚が爛れている。大概の傷ならどうにか出来る彼もさすがにエネルギーの消耗が激しく、全身の修復が追いついていない。
 蛾が這って骸に近付こうと動いた。重い躰を引きずる姿は、蛞蝓(なめくじ)のようだ。
 その鈍重な姿に骸は油断していた。蛾の腹部の口からヒュゥと触手が素早く伸びて、彼の脚に巻きついた。彼は咄嗟にそれを外そうとしたが、しっかりと巻きついた触手は離れない。彼は引きずられ、蛾の方へと引っ張られていく。
 未来には、それを見ているしかなかった。
 麻痺した躰は言うことを聞いてくれず、呼吸も今にも止まりそうに苦しかった。もうここで終わりなのかもしれない。自分はきっと死ぬんだ。――もう何度も思ったことだが、これが本当に最後なのではないかと彼女は思った。彼女の視線の先では骸が引きずられ、巨大な化け物に殺されそうになっている。その姿が弘之の最期とダブった。もう誰も失いたくはない。だが、自分に出来ることなどなかった。一体、わたしに何が出来るというのだろう? 普通の女子高生なのだ。あんな化け物を倒すことなんて不可能にほかならない。
 ――そんな彼女の目の前に、あるものが転がっていることに気付いた。
 それは骸の骨刀だった。未来の脳裏にある思いがよぎる。もしこの骨刀を彼に渡すことが出来たら、彼は助かるのではないだろうか? この躰が動いてくれるかはわからないが、彼の存在が自分の生死を決めるのは確実だった。ならば出来る限りのことはしよう。足掻(あが)けるだけ足掻いてやる!
 どれだけ力を込めても弱々しくしか動いてくれない躰を、彼女は精一杯動かそうと努力した。ちょっとの動作で呼吸が乱れ、息が止まるかと思った。でも、彼を助けなければどうせ止まってしまうのだから――そう思って彼女は苦しさに負けず少しずつ床を這った。
 何十時間も走り続け、もう上がらなくなった脚を想像できるだろうか。もう振れなくなった腕を、涙が出るほどつらい呼吸を、想像できるだろうか。彼女はまさにそのような状態にあった。実際に涙が頬を伝った。もうこれ以上動けない。いやまだ頑張れる。その二つの想いがぶつかり、せめぎあい、彼女の中で闘っていた。彼女はその葛藤の中で、どうにか骨刀のところまでいこうと床を這って進んだ。
 思いっきり腕を伸ばしたその先に、何かが触れる。彼女の指先には、確かに硬い感触があった。――骨刀だ!
 未来は骨刀を掴み、渾身の力で立ち上がった。涙が溢れている。彼女は叫んだ。――少なくとも、彼女自身はそう思った。実際に声が出ていたかは別として。
 震える腕。それに全身全霊を込めて、未来は骨刀を投げた。骨刀は放物線を描き、骸の近くに転がった。――それは奇跡的にも彼の手の届く範囲に落ちた。
 骸は骨刀を掴み、蛾の腹部から伸びている触手を断ち切った。そして立ち上がるのと同時に、蛾の頭を斬り落とした。しかし、頭部を失った蛾の躰はまで動いている。
 ジュッという音がして、そのあと異臭が骸の鼻孔を突いた。蛾の翅が融けている。彼は上を見た。天井に半透明のヤモリのようなカタチの化け物がいた。その目はなく、その体表からドロリとした粘液のようなものが垂れ、それが頭部を失った蛾の躰にかかっていた。どうやら溶解液らしい。
 彼は未来に近付いて、彼女を抱き上げる。そして風のように走った。後方では蛾が元のカタチを失っている。半透明のヤモリは彼らを追う様子はなかった。
 骸は建物の外に出た。2人はついに魔物の巣窟から脱出することに成功したのである。

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DATE: 2010/08/28(土)   CATEGORY: MUKURO外伝
MUKURO外伝(24)
 ひとつの危機は去ったが、新たな敵が二人の前に現れた。化け物たちは彼らに休息の時を与えてはくれないらしい。新たな敵は、建物内の壁にひっついている中でもひと際巨大な繭から誕生した。
 それは巨大な蛾だった。
 しかもそれはただ大きなだけではない。その蛾は繭を突き破ると同時に巨大な翅(はね)をゆるやかに羽ばたかせ飛翔した。そのとき未来は蛾の腹部を見た。そこには、大きな口がいやらしく開いていた。
 その口は、蛾の躰と同程度ほど巨大なものであった。またしても異形。まさしく魔界の生物。未来は自身の躰が強張るのを感じた。
 新たに現れた敵に対して、骸の行動は素早かった。俊敏に駆け出し、骨刀を構えて蛾に向かって跳んだ。彼の跳躍力は人間のそれではない。空(くう)を浮く蛾の高さまで容易に到達するだろう。
 ――だが、彼は敵の高さまで届くことはなかった。巨大な蛾はその巨大な翅を大きく羽ばたかせ、強風を巻き起こし、彼の勢いを失わせた。風に煽られた骸は、手に持つ骨刀で敵を斬り裂くことなく地上まで押し戻され、着地させられることを余儀なくされた。
 蛾がその翅を羽ばたかせるたびに、そこから鱗粉が空中に舞い上がった。宙を舞う微小な粒子は風に乗って、骸たちに吹きつけられた。それは骸に対しては何の効果をなさなかったが、鱗粉をまともに受けた未来は全身が痺れるような感覚に襲われ、身動きが出来なくなった。
 骸は再度跳躍し、蛾に襲いかかろうとしたが、またしても翅の巻き起こす風が彼を妨げる。
 突然、宙を羽ばたく蛾の躰が蠕動(ぜんどう)を始め、腹にある大きな口から黒い何かが地に落ちた。それは始めうずくまるように丸まっていたが、むくりと立ち上がり、その姿が明らかになった。それは人のような姿をしていた。だが、人ではない。シルエットは人間と瓜二つだが、肌は青紫の色をしていて、両目がなかった。髪もなく、つるりとした頭部に唯一ある口にはギザギザとした歯が窺える。何よりそれは小さく、未来の身長の半分ほどしかない。皮膚はヌルヌルと粘液のようなもので覆われている。
 巨大な蛾から産み落とされた青紫の小人は、立ち上がると同時に未来へと飛びかかった。骸は機敏に彼女を護り、小人を斬り伏せる。
 蛾は再び青紫の小人を産み落とした。一匹、二匹と立て続けに地に落とされる小人たちはキィィとかん高い叫びをあげて骸に襲いかかった。彼はそれを順序よく薙いでいったが、数で圧倒していく小人の群れに、いずれ捌き切れなくなり、小人のうちの一匹が彼の脚に飛びついた。思わず骸はバランスを崩す。その機を逃さず小人たちは彼の躰に飛びかかり、全身にしがみつかれた彼はそれ以上敵を薙ぎ倒すことが出来ない。
 未来は無防備だった。蛾の鱗粉による麻痺で全身が思うように動かせない。しかも鱗粉を吸ってしまったらしく、呼吸までもが上手く出来なかった。ヒューヒューと不規則に空気が漏れる音が彼女の喉からしている。
 骸は、自分の躰にしがみつく小人の一匹の頭を手で掴み、それを地に叩きつけた。小人の頭は潰れ、粘つく液体が飛び散る。彼は他の数匹も力任せに投げ飛ばした。
 残った小人がギザギザとした歯で骸の躰に喰らいつき、彼はもがいた。もう一匹の小人が骸の手から骨刀をもぎ取り、床に放る。骨刀を奪われた骸だが、彼はまた一匹異形の小人を投げ飛ばし、躰に喰らいついている一匹は床に圧しつけて潰した。
 投げ飛ばされた小人が再び襲いかかろうと骸に向かったが、彼に渾身の蹴りを放たれ小人は吹き飛ばされ壁に当たって動かなくなった。


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DATE: 2010/08/26(木)   CATEGORY: MUKURO外伝
MUKURO外伝(23)
 デパートの内部は魔の巣窟と化していた。繭――らしきもの――から生まれた人面蜂は数を増し、それ以外の異形の姿も認められた。
 もはやここが安全地帯でないことは明らかだった。
 骸は先陣を切って、魑魅魍魎が蔓延る魔界へと飛び込む。彼は次々と襲いかかってくる人面蜂を薙ぎ払い、道を切り開いていく。覚悟を決めて未来は骸に続いた。
 いくら仲間がやられようとも、人面蜂の攻勢は衰えることを知らず、数で骸に襲いかかる。俊敏な動きではあるが、骸の骨刀は見事に敵を捉え、倒していった。
 そこに現れたのは、他より一倍大きな人面蜂だった。
 その差異は躰の大きさだけではない。そのボディは黒い色をしていた。そして何より違うのは、その頭だ。能面のような顔が、縦に2つ並んでいる。明らかに他の人面蜂とは別種だった。突然変異か、その亜種なのかもしれない。
 新たな敵に気を取られた瞬間を狙って、人面蜂が骸に急接近した。速い。尾の毒針が彼を襲う。骸は咄嗟(とっさ)に上半身を反らし、それを避けた。毒針が目の前をかすめる。
 その隙を黒い人面蜂は逃さなかった。尾を骸に向け、毒針を飛ばす。それは他の人面蜂にはなかった攻撃だ。骸はまだ体勢を戻していない。毒針は真っ直ぐ突き進み、骸の肩に命中した。
 ただでさえ骸は先の戦闘でのダメージを回復しきっていない。一瞬、彼の動きが鈍る。
 人面蜂が骸に群がった。いくつもの毒針が彼の躰を貫く。
 彼は渾身の力で群がる人面蜂を振り払い、回転して人面蜂を一気に薙ぎ払った。
 黒い人面蜂が骸との距離を詰める。
 骨刀が一閃した。
 だが、黒い人面蜂のボディはそれを弾き返すほどの硬度を持っていた。骨刀が通用していない。
 骸は後方に跳んだ。
 黒い人面蜂がすぐさまそれを追う。
 接近してきた人面蜂に対して、骸は能面のような顔に骨刀を突き立てた。それは躰とは違い、骨刀を弾き返すほどの硬度はなく、骨刀が内部へと突き抜ける。
 人面蜂の持つ、もうひとつの顔が縦一文字にばっくりと開いた。中からピンク色をした半透明な触手が数本這い出してくる。それが骸の左腕を捕えた。
 未来が悲鳴をあげた。
 他の人面蜂が彼女に襲いかかろうとしているのが骸には見えた。彼は瞬時に判断し、骨刀を投げ飛ばした。骨刀は一直線に宙を進み、人面蜂に命中した。その隙に未来がその場から離れる。
 それを見届けてから、骸は全エネルギーを両腕に集中させた。両腕に力が漲る。彼は自分を捕えている黒い人面蜂の開いた顔を掴んだ。
 メキメキという音がする。
 彼は、人面蜂の開いた顔を力任せにこじ開け、そのまま人面蜂を顔から引き裂いた。
 顔から躰半分を裂かれた人面蜂は、それでもまだ蠢いている。凄まじい生命力だ。骸はそれを渾身の力で蹴り上げ、もう二度と動けぬように踏みにじった。
 そして疾駆する。
 未来を襲っていた人面蜂は突き刺さった骨刀によって動きは鈍っており、骸は簡単に接近することが出来た。骨刀の柄を掴む。彼は引き抜きざまに人面蜂を斬り裂いた。


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DATE: 2010/08/24(火)   CATEGORY: MUKURO外伝
MUKURO外伝(22)
 弘之は連れ去られてしまった。あの異形の者によって。巨大な化け物の一部である者によって。かつては人だったであろう者によって。弘之は連れ去られてしまった。
 彼は、笑っていた。満身創痍の躰で立ち上がることすら困難だったはずなのに、渾身の力で自分を守るために立ち上がり、そして代わりに連れて行かれてしまった。あの、かつては人だったであろう亡者に、攫(さら)われてしまった。
 未来は悲しくなかった。辛いとも感じなかった。感情が全て麻痺していて、何も感じることが出来なかった。ただ呆然と立ちすくんでいた。彼女を包むその感情は、絶望と呼ぶにふさわしいのかもしれない。無こそが絶望。何も無い。何も感じることが出来ない。思考は停止して、このときの彼女は意思を持っていなかった。まさに絶望。彼女の姿を、それ以外に形容できそうにない。
 無数の有機的な槍に貫かれていた骸は無理に躰を捩じらせ、巨鯨から逃れた。その際に肉体は引きちぎられ、身体はボロボロだった。槍に貫かれた穴が体中に出来ていて、それから無理に逃れたので、その姿は凄惨たるものであった。
 当然のことながら、普通の人間なら死んでいる。肉体が人の姿を保っているのが不思議なほどに、その躰はズタズタなのである。だが、骸は人ではない。彼はまだ動けた。そして、かなりのエネルギーを消費するものの躰の傷は修復できるはずだった。彼は自分の躰を心配するより先に、とにかくこの場を離れなければならないと思った。
 空中に浮かぶ、巨大な物体。それは空飛ぶ地獄のようであり、魔界の宮殿のようでもあった。巨鯨は、骸が相手をするにはあまりに強大過ぎた。彼は、自分の敵が手に負えないことを理解していた。とにかく、この場を離れなければならない。
 骸は自身の躰を修復するより先に疾駆(はし)った。黒き疾風となり、未来を抱き上げて駆け抜けた。彼女はあっという間の出来事に何の反応も示せず、気付いたときには屋内に戻っていた。骸が彼女を地面に降ろす。
「どうして…」
 やっとのことで未来は口を開いた。
「どうして弘之を助けてくれなかったの!?」
 悲鳴に似た叫びだった。弘之のことが、骸のせいではないとわかっていても彼を責めずにはいられなかった。それにいくら訴えても、弘之は帰ってこない。
「――あの状況では俺に助けることが出来なかった」
「どうして!? あなたの力があれば助けることが出来たでしょ!?」
 骸は何も答えなかった。
「どうして…。どうして弘之があんな化け物に捕まらなきゃならなかったの? なんでわたしなんか助けたのよ、バカ……」巨鯨の一部となりながら苦しみに叫んでいた人々を思い出してから、あの地獄に囚われた弘之の姿を想像する。「これからわたしはどうしたらいいの…?」
 彼女の頬を涙が伝った。
「生きろ」
 ただ一言の、骸の言葉。
「どうやって? こんな地獄みたいな世界で! この魔界じみた世界で! どうやってわたしは生き延びればいいっていうの!? 弘之があんなことになったっていうのに!」
「生きろ」それがお前の義務であり、使命だとでも言うような口振りだった。「お前のことは俺が護る」
「でも、弘之のことは護れなかったじゃない……」
 嗚咽混じりの声だった。
「それでも、俺はお前を護る。俺のこの存在に懸けても」
 しばしの間が空いた。
 少しだけ冷静になった未来は、まっすぐ骸に向き合った。
「どうしてわたしのことを護るの?」
「それが、俺の存在する理由だからだ。俺はお前を護るために存在している」
 未来には、彼の言葉の意味がよくわからなかった。当然のことながら彼女には、骸にとって人類は護るべき存在であり、彼はそのために存在しているということはわかりようがなかった。――そして今の骸にとって、護るべき人間は目の前にいる未来だった。
「行こう」
「どこに?」とは尋ねなかった。明確な行くあてなどないように感じたからだ。
 だが、そっけない言い方ではあったが、ここに長居するのは確かに得策ではないように思えた。未来は思う。弘之が助けてくれたこの命、わたしは必死に護っていこう。そのためにこの男の力を借りなくてはならない。
 行く先がどこであれ、わたしは生きる。
 未来は強く思った。
 弘之、わたしは生きるよ。絶対に生き延びてみせるから。助けてくれたこの命を無駄になんかしないから。
「ええ、行きましょう」
 その声には、どこか力強さが宿っていた。


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DATE: 2010/08/22(日)   CATEGORY: MUKURO外伝
MUKURO外伝(21)
 西田は捕えられた。空中に浮かぶ巨大な化け物に。
 巨鯨の外皮に溶け込むように取り込まれながら、それでも生き続けている人間。彼らは蠢き、叫び、助けを求めている。だが、彼らを救う術(すべ)などない。永遠の地獄。宙に浮かぶ地獄がそこにはあった。そして、そこに西田も加わってしまった。
 取り込まれた人たちはどのような感覚なのだろうか。痛みはあるのか。未来には想像も出来ない。ただ、彼らは苦しんでいた。泣き叫んでいた。だけれど、彼らはもはや人ではない。そう思うしかない。彼らの腕は伸びて、西田を捕え、連れ去ってしまった。“あれ”はもはや巨鯨の一部なのだ。彼らは一つの器官として、存在していた。
 目の前では弘之が息絶え絶えに横たわっていた。新たな腕がこちらに向かってきている。未来は脱力感に襲われた。もう限界だと悟った。自分の命はここで終わるのだと、そう思った。それは確信だった。
「逃げろ、未来」
 弘之が言った。
「俺のことは置いて、逃げろ。今ならまだ間に合う。逃げれるはずだ。俺のことなんか、構うんじゃねえ」
 弱弱しい声であった。だが、その言葉には彼の信念に似た何かが宿っていた。彼は覚悟していたのだ。おそらく、俺はもう死ぬ。この場を逃げ延びたとしても長くは生きられないだろう。ならば、せめて未来には生き延びて欲しい。この変貌してしまった世界で生きていくことがはたして幸せかどうかはわからないが、それでも死んで欲しくない。「頼む。逃げてくれ…」
 弘之の言葉に未来は頭を横に振った。絶対に嫌だ。ひとりにはなりたくない。お願い。一緒に逃げて。諦めないで。だってこの先ひとりでどうしろっていうの? お願い、死なないで。
「ばぁか。こうなったら、生きれるやつは生きていくしかないだろ。生きたくても生きていけなかった人間の代わりに。……俺はもうダメだ。自分のことだから、よくわかる。さっきから感覚がほとんどねえんだ。躰に力も入らねえ。逃げられやしねえよ。――だから、お前だけでも生きてくれ」
「いやだ!」声にしたつもりが嗚咽しか出てこなかった。涙が溢れ出す。未来は、弘之の手をぎゅっと握りしめた。
 数本の腕が迫ってきている。未来は目を閉じて、覚悟を決めた。わたしは最後まで弘之と一緒にいる。いつまでも、一緒にいるから。
 突如、一瞬の風が横切った。
 漆黒を身に纏った男が目の前に立ち、迫りくる腕を斬り落とす。
「逃げろと言ったはずだ」
 さらに襲いかかる腕を骸の骨刀は斬り裂いた。
 最初は何が起こったのかわからなかったが、状況を理解して、未来に生き延びる希望が湧きあがる。――もしかしたら助かるかもしれない。
 黒き救世主は巨鯨の放つ腕を次々と薙いでいく。早く逃げなければ――だが、弘之は立ち上がれそうにない。どうすればいいの? 未来は思った。お願い、立って!
 切断された腕の断面が変形して、鋭い槍になった。それが再び骸を襲う。数が多い。捌ききれない。骨刀を逃れた槍のひとつが彼の躰を貫いた。骸の動きが鈍る。それを皮切りに無数の槍が彼の躰に突き刺さる。骸の動きが封じられた。
 巨鯨から新たな物体が近付いてくる。それは腕ではなかった。――人の躰だ。
 上半身は人の躰をしていて、下半身は巨鯨から伸びるようになっている。髪はなく、目は虚ろだった。もはや人の思考や意思はないように見える。完全に巨鯨の一部と化した、取り込まれた人間のなれの果てなのだろうか。皮膚は青白く、口は半開きだった。
 それが未来に向かって突き進む。
 彼女には悲鳴をあげる余裕すらなかった。それほどまでにおぞましい光景だ。
 次の瞬間、未来は強い衝撃を受けた。気付いたときには地面に叩きつけられていて、痛みで小さく呻いた。どうやら突き飛ばされたらしい。
 視線をあげると、彼女の目の前には弘之が立っていた。顔色が悪い。血はとめどなく溢れ続けていた。――だが、彼は笑っている。
 巨鯨の一部と化した人間だったそれは、背後から抱き締めるように弘之を捕まえた。そして彼は引っ張られ、宙に浮く。
「弘之!」
 反射的に、未来は叫んだ。
「未来、俺の分まで生きろよな。お前は死ぬんじゃないぞ。絶対にだ。――約束だ」
 彼の躰はどんどんと遠ざかり、巨鯨へと引き寄せられていった。それ以上を、未来は見ることは出来ず、思わず顔をそむけた。
 弘之は、巨鯨に捕えられ、その一部となった。


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DATE: 2010/08/20(金)   CATEGORY: MUKURO外伝
MUKURO外伝(20)
 何の前触れもなく、大きな影が彼らを包んだ。陽の光は遮られ、辺りは薄暗くなっている。何かが聴こえた――
 ふと空を見上げるとそこには巨大なものが浮いている。あまりに巨大で、それが何なのかすらわからない。
 オオオオオオオオオオウウウウウウ――
 低い、呻き声のようなもの。それが複数辺りにこだましている。
「――なに?」
 続いて、人の悲鳴が聴こえた。苦しみ悶える叫びが響き渡った。男女どちらのものもある。それらは宙に浮かぶ巨大なものから発せられているようだった。よく見ると、その巨大な物体の表面で何かが蠢いている。――それは人だった。未来は、地獄を覗いたような気がした。
 そして巨大なそれは途方もないほど大きな鯨だと彼女は理解した。宙を自在に泳ぐ魚がいたのだから鯨もいておかしくはないのだが、おぞましいのはその外観だ。鯨の頭にはいくつもの大きな眼がついていて、常にギョロギョロとあたりを見回している。その数は数え切れそうもない。さらに恐ろしいのは、その外皮に溶け込むようにくっついた、人の躰である。腕、脚、顔。それらが鯨の躰から生えるようにくっついている。上半身だけの者もいればその逆も、あるいは右半身だけ見えている者もいる。先ほどからの悲鳴、叫びは彼らのものだった。
 それは、地獄が宙を彷徨っているかのような光景だった。
 どうしてそうなったのかはわからない。だが、巨鯨に取り込まれてしまっている人間たちは誰もがそこから逃れようともがいていた。彼らにどのような苦しみがあるのか、未来にはわからない。果たして彼らは痛いのだろうか、一体化した四肢に感覚はあるのだろうか。何もかもが想像するには、超越していた。想像を遥かに超えている。あるのは恐怖だけ。圧倒的な恐怖しか感じられない。未来は呼吸をするのを忘れていた。否、あまりの恐ろしさ、おぞましさにうまく息が出来ないでいる。
 ギョロリと、巨鯨についた目玉のひとつのその焦点が未来たちに合うのがわかった。巨鯨の野太い鳴き声が大気を震動させる。その外皮で蠢いていたいくつかの腕が動きを止めた。そして――
 その腕がぐわっと勢いよく伸び出した!
 腕はどんどんと伸び続け、地上を目指している。それは明らかに未来たちに向けられたものだった。未来は頭の中が一瞬で真っ白になり、どうしたらいいかわからないでいる。逃げなければ――という思い、そして、弘之を連れ出さなければ――という思い。しかし、向かってくる腕の速度は尋常ではない。とてもじゃないが弘之を連れて逃げるなどと悠長なことは言ってられそうになかった。だからといって置いて逃げる気にもなれない。
 腕は矢の如く、まさに飛ぶ勢いで一直線に進んでいる。
 それに反応したのは放心状態だった西田である。彼は急に正気に戻ったのか、奇声をあげながら走り出した。一目散に逃げ出した。
 それを見てあっけに取られた未来は、逃げる西田を見送るしか出来なかった。
 そんな彼女の横を腕が勢いよく通り過ぎていく――
 西田が伸びる腕に捕まった。まずは腕を掴まれ、続く腕には脚を掴まれた。彼はもがき、抵抗するもその腕が離れる様子はない。それどころが強烈な力でズルズルと引きずられている。――西田が、泣き叫んだ。
 だがしかし、化け物は容赦ない。巨鯨の躰から放たれた幾本もの腕が、圧倒的な力で彼を押さえつけ攫っていく。
 宙に引っ張られていく西田と目が合った。助けを求めるかのような眼差し。耐えられず未来は彼から目を背けた。


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DATE: 2010/08/18(水)   CATEGORY: MUKURO外伝
MUKURO外伝(19)
 デパートの屋上で、高儀 未来は意識を失って倒れた佐々木 弘之を揺さぶっていた。だが、いくら揺すっても目は覚めない。このまま死んでしまうのではないだろうか――そんな思いが心をかすめた。
 弘之の腹には穴が穿たれており、そこから血がとめどなく流れている。その傷はイノシシの化け物にやられたものだった。巨大な角のような牙が彼の腹をえぐったのだ。
 これほどの血が流れていれば、いつ失血死していてもおかしくはない。
 未来は弘之の鼓動がまだ動いているのを確かめて、「死なないで」と何度も叫んだ。涙がとまらない。彼の呼吸は浅かった。未来にはどうすることも出来ず、ただ腹の傷を両手で押さえるくらいだ。
 無我夢中で逃げていた結果、辿り着いたのがここである。何もない屋上。これ以上どこに逃げることも出来ず、だからといって戻ることも出来ない。建物の中はもはや化け物の巣窟と化しているからだ。
 彼女は、途方に暮れた。
 あの骸という男、ここまで助けに来てくれるだろうか。あの男、どういった人間かはわからないが只者ではないことは感じていた。なんともいえない異様な雰囲気が男を包み込んでいた。しかし、邪悪な感じはしない。およそ感情というものが認められない雰囲気はあったが、なのにどこか優しさを感じた気がする。実に不思議だった。肌は蝋細工のように白かった。髪は闇に紛れるような黒さだった。妖しげなオーラを纏い、骨のような剣を操っていた。――そもそも人間なのだろうか? だが、あの化け物の仲間とも思えない。
 弘之の血はまだ流れ出続けている。
 早く手当をしなければならなかった。そのためには、どうにかここから離れなければならない。でもどうやって? 来るなら早く来て欲しい。お願い助けて。――未来は、気付けば見ず知らずの男を頼っていた。
 誰かが屋上にあがってきた気配がして、未来は躰を硬直させた。あの男だろうか? それとも――化け物なのか? 彼女は恐るおそる、ゆっくりと振り向いた。そして、そこに居るのが一人の男だと知った。
 ――それは西田だった。
 先ほど未来を襲い、辱めようとした西田はなぜか全裸だった。確かに下半身は脱いでいたかもしれないが、どうして上半身まで脱いでいるのかわからない。だが、全裸なのだ。
 彼は呆けた表情で、ただ立っていた。その視線はどこに向いているのかわからない。何かを見つめているようにも、何も見ていないようにも見える。その状態で、よくぞ化け物に捕まらずここまで来たと思う。彼は廃人と化してしまっていた。
 意味もなく口をぱくつかせながら呆然と立っているだけの西田に、未来はどうしたらいいのかわからずにいた。正直、近付くのは怖い。だけれど、このまま放っておいてもいいものなのだろうか。
 ――出来れば、勝手にどこかへいなくなって欲しい。
 未来がそう願っても、西田は依然としてそこに立っているままだった。ここまでは自分で歩いて来られたというのに、どうしてそこで立ち止まっているのだろうか。わけがわからない。
 そのとき、弘之がわずかに呻いた。
「弘之っ!?」
「うぅ……ぁ………」
 少しの間を空けて、弘之はゆっくりとまぶたをあげた。
「……み、らい………」
「しっかりしてよ!」
「ん、あぁ、大丈夫だよ……」
 大丈夫なはずなかった。彼の傷口からはまだ血が溢れている。
「未来、お前に怪我はないか?」
「うん、大丈夫」
「そうか」弘之がわずかに微笑んだ。「よかった」
 もっと何か言ってあげたい。でも何を言えばいいのかわからず、未来は何も言えない。弘之は着実に死に向かっているのがわかる。そんな彼を前にして、自分は何を言えばいいのか……。
「あああうううううう」
 突然の声に二人はびっくりする。それは西田のものだった。
 急にどうしたというのだろう。先ほどまでは何にも反応せず、興味を示さずといった様相だったのに、今は何かに声をあげている。
 そのときだった――
 突然、大きな影が彼らを包み込んだ。


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DATE: 2010/08/16(月)   CATEGORY: MUKURO外伝
MUKURO外伝(18)
 悲鳴が轟いている。絶叫が響き渡る。青白き顔が血の涙を流しながら苦痛に顔を歪めていた。痛いよう痛いようと聴こえてきそうだった。それらはおんおんと泣き続けていた。
 落ちた頭は憤怒の形相で骸を睨みつけ、その口から伸びている腕たちが床にべたりと手を這わせた。ズズ、ズズズ。無数の手がイノシシの頭を引きずりながら這ってきている。ズズズズ。ズズ。恐ろしい光景だ。まさに地獄! まさに魔界! この世は邪悪な世界に呑み込まれてしまったに違いないと誰もが思うだろう光景。
 骸の背後に気配があった。巨大ムカデが、彼に突進してきていた。跳躍。ムカデは突進を避けた骸を追尾する。骸が骨刀を構えた。液状のものがムカデの口から吐き出される。――溶解液だ。
 骸はそれを飛び退いてかわす。床がジュッという音をたてて溶け出した。異臭が立ち込める。素早い動きでムカデの背後をとり、骨刀を振りかぶる――が、そこでムカデの頭がぐるりと向きを変えた。再び溶解液。今度はイノシシの胴体にかかり、ズブズブとそれは溶けて崩れ落ちた。
 イノシシの頭の切断面から触手がうようよ這い出してきて、束になる。それは脚の役割を務め、イノシシの頭は2足で立ち上がった。口からは無数の青白い腕。それが海藻のようにゆらめくように動いている。あたかも手招きしているように見えなくもない。
 2対1。分が悪いが、闘うしかない。骸は両脚に力を込めて疾駆する。
 黒い触手の脚にイノシシの頭、その口からは無数の青白い腕という異形のノスフェラトゥ(不死者)は拙い足取りで骸に向かっていく。ムカデは半分になった躰を器用に動かして骸を追いかける。舌打ちが出そうだった。勝てるだろうか。
 追いかけてくる巨大ムカデを迎え撃とうと骸は構えた。溶解液が吐き出される。それを避けようとしたとき、どこから現れたのか人面蜂が骸の背後を取り、彼にしがみついた。全身に溶解液が浴びせられる。半溶けの人面蜂が地に落ちた。骸もいたるところが溶け出して思わず膝を尽いてしまう。
 ここぞとばかりに巨大ムカデは骸に突進した。グロテスクな牙が彼の躰を貫く。脆くなっている躰は簡単に千切れてしまいそうだった。だが、そうなる前に渾身の力を込めて骸は骨刀をムカデの頭に突き刺す。ムカデは痛みに暴れ、骸の躰は床に叩きつけられた。
 あたり構わず溶解液が舞った。それをほうほうの体で骸は避ける。だが、イノシシの頭には溶解液がかかり、どろりと皮が溶け出した。
 のそり、のそり。ゆっくりした歩調で異形のイノシシが進む。顔は半分溶けている。その姿はまさに化け物のゾンビノスフェラトゥ。ムカデがその足元に近寄った。すると――
 イノシシの触手がムカデの頭にしゅるしゅるの巻きつき始めたではないか!
 そして2体の化け物は一つになった――
 巨大なムカデの胴を持ち、頭は眼のないイノシシ。その口からは無数の青白い腕が這い出し、蠢いている。醜悪な姿だ。あまりにも、醜悪すぎる。
 グオオオオオオオオ!!
 化け物が雄叫びをあげた。ギチギチとムカデの脚が動いている。
 骸が地面を蹴った。
 俊敏な動きでムカデの脚を斬り落とし、その機動力を奪っていく。
 化け物は抵抗するように体を暴れさせた。だが、骸には通用しない。さらに脚が削ぎ落とされる。
 ギィエエエエエエエエエエエエエエ!!
 化け物が奇怪な叫びをあげた。その体がボコボコと動いている。まるで内部で何かが暴れまわっているようである。
 突如、化け物の体から何かが突き出した。――腕のようである。
 口から這い出しているのと同じような青白い腕が、化け物の胴体を突き破って現れた。
 また一本腕が現れた。そしてまた一本。
 それらは失った脚の代わりのようだった。人間の腕を持ったムカデの胴体。なんとも気味が悪い。化け物はより醜悪な姿にカタチを変えた。そして、より邪悪な姿に。
 思わず、骸は後ずさった。このノスフェラトゥはどうやったら倒せるのだろうか、見当もつかなかった。
 彼は意を決する。溶解液で脆くなっていた躰はもはやほとんど元通りになっていた。尋常ならざる治癒力だ。――いや、それは治癒というよりは復元だった。他にあてがわれていたエネルギーで失われた部分を補っている。純粋なエネルギー体の彼は、傷付くという概念が人間のものとは違っているのだ。
 残った力を使って彼は、跳んだ。
 大きな跳躍。振り上げられた骨刀がイノシシ頭に突き刺さる。
 そのまま、彼は化け物の背中を走った。
 切っ先が化け物の体を縦一文字に切り裂いていく。
 頭から尾の先までばっさりと両断された。
 醜き化け物ノスフェラトゥはついに力果て、その場に倒れた。


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DATE: 2010/08/14(土)   CATEGORY: MUKURO外伝
MUKURO外伝(17)
 黒い触手がいくつも連なって出来たイノシシの首の内部から、ぼこんと白いものが現れた。――なんと人の顔である!
 青白いそれは生気をまとっておらず、まるで死人のものだった。表情はわずかに哀しんでいるようにも見える。だが、角度を変えれば怒っているようにも見えたし、笑っているようにも見えた。基本的には無表情に近い。
 ぼこん。
 また顔が生まれた。今度は泣いているような顔だ。
 ぼこん。
 また生まれた。
 ぼこん、ぼこん。
 イノシシの首から次々と死者の顔が現れる。
 それは、まるでその体内が冥界へと繋がっているように思わせた。
 ぼこん。
 青白い、顔、顔顔、顔。
 異様な姿だった。それまでも充分に異様であったが、それにも増して異様だ。まさに異形。冥界の化け物。醜い獣の姿がそこにはあった。
 一気に間合いを詰めて、骸の骨刀がイノシシの後ろ足を両断する。
 脚が飛んだ。
 血飛沫が上がるかと思えば、血の代わりに流れ出たのは黒き触手である。それが束になって、失われた脚の代わりの役目を果たした。
 突如、悲鳴が轟いた。
 見てみるとイノシシの首から現れた死者の面が甲高(かんだか)い声で叫んでいる。
 血の涙を流していた。
 おおーーん。
 今度は野太い嘆き声である。
 おおーーん。
 両眼から血を流して、泣いている。
 長い首の先についたイノシシの頭が骸に向いた。何もない双眸が、彼を睨めつける。
 口からは無数の白き腕が吐き出されている。
 その手は彼を呼んでいるかのようだった。
 ――こっちに来い。
 骸を冥界へと誘っている。そんな雰囲気だ。
 だが、骸は自分が立っている世界が死後の世界であることを知っていた。本能的に、悟っていた。ここは肉体を喪失(うしな)った魂と精神が訪れる世界。いずれ与えられる次なる肉体を待つ間に過ごす場所。ある意味では、ここが冥界なのである。
 では、あのイノシシの体内が孕んでいる空間とは何なのか――?
 それはおそらく、化け物の世界なのだろうと思う。
 少なくとも骸はそう理解した。
 確かに自分は、人間よりは化け物に近い存在である。魂を持たない、人間でいえば精神エネルギーだけで創られた存在。様々な念が凝り固まって生まれたのが化け物たちであり、骸と同じ、いわばエネルギーの集合体なのである。
 あの泣いている死者もまた何らかの思念がカタチを成したものなのであろうか?
 あるいは、化け物に捕らえられてしまった人間の魂なのかもしれない。
 化け物は魂を欲している。
 自分たちが持っていない、魂という生物にとってのコアを、常に欲している。
 無いものを手に入れたいのだ。
 だから化け物は人間を喰らう。
 そして悲鳴を聴きたいのであった。
 化け物どもは恐怖を欲していた。悲しみを欲していた。怒りを欲していた。それらは自分たちの糧となる。様々な念が化け物を生み出したのであれば、様々な念が化け物たちの糧となる。念とは、感情のことだ。強い感情。
 恐怖がそれだ。悲哀がそれだ。憤怒がそれだ。快楽がそれだ。そして欲望がそれだった。
 人間よ、怖れ、慄き、泣き叫び、理不尽な境遇に怒れ。最期を悟って快楽に、己の欲望に溺れ好き放題すればいい。――それごと喰らってやろう。それごと喰らってやる。
 それが化け物どもの本能だった。
 青白い腕がこっちに来いと手招きしている。
 だが、しかし、自分の本能は化け物たちのそれとは違う。それだけは明瞭(はっきり)と理解していた。欲望が凝り固まった存在では、ない。ならば何なのかと問われてしまえば困るのだが、それでも自分はもっと別次元の存在なのだろうと思う。
 もし神がいるのならば、その遣いなのかもしれない。化け物どもから人間を守るために、神が遣わしたのが自分なのだろうか。
 あるいは神の気紛れか。一方的に人間が狩られていくのではつまらないと、ゲーム感覚で一石を投じたのが自分なのかもしれない。
 ただ、そんなことはどうでもいい。
 自分がすべきことはわかっている。
 それだけがわかっていれば他はいらない。
 どのような経緯から己が誕生したのかは知らないが、自分はただ化け物どもを狩るのみである。人間たちを守るだけである。
 骨刀の切っ先が鋭く空気を切り裂いて奔った。
 いくつかの死者の面ごと、イノシシの首が両断される。
 イノシシの頭が再び地に落ちた。


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DATE: 2010/08/13(金)   CATEGORY: 雑記
もしかして:13日の金曜日
先日かなり号泣してしまった。アニメで。
「RAINBOW 二舎六房の七人」というアニメなのだが、俺はこの原作なるマンガも読んでいて、そのせいで最初から感情移入が激しく、毎話必ずどこかで泣くという涙腺異常を起こしている(笑)

で、主人公のひとりであるマリオ(真理雄)を助けるためにバレモト(野本)が検事に訴えるシーンがある(内容を知らない人は何のことかさっぱりだろう)。

このシーンで、泣いた。もう涙がとまらなかった。嗚咽が抑えられなかった。
舞台は戦後の日本である。検事は「私は犯罪を許さない! 貴様らみたいなやつのせいで日本は戦後のままなんだ! 私たちは貴様らみたいなクズのために戦争で血を流したわけではない!」というようなことをバレモトに言う。
それに対してバレモトは「……確かに俺らはクズかもしれない。だけど、好きでこうなったわけじゃない。俺の親父は満州で戦死しました。お袋は俺ら子どもを育てるために人には言えないような苦労をしました。全部、あんたたちが始めた戦争のせいじゃないか!」と悲痛の叫びをあげる。「話くらい聞いてくれてもいいじゃないか!」戦後日本、大人が始めた戦争に多くの子供たちが犠牲になった。彼らは大人以上に、虐げられた。時には人には言えないようなこともしなければ生き延びれない時代だった。年少あがりの人間であるバレモトは、話を聞いてもらうことすらできない。

俺は号泣だった。声に出して泣いた。彼の悲痛な叫びが、痛かった。
俺は戦後の日本を知らない。けれど、想像してみることはできる。過酷な時代を子供たちが生き抜く様を思い巡らす。バレモトの母親は、子供に食べさせるためにたった一升の米のために狒々親爺に抱かれた(ここはアニメでは描かれていないが)。

嗚咽がとまらなかった。「うう、うっ…うぇっうぇっ……ううっ…」人には見せられないほど、恥ずかしいほど泣いた。それは、祖父の葬式の弔辞で、妹が涙で途中からうまく喋れなくなったときより泣いていた。←泣きすぎ(このこと話したら「戦中を経験した人か」と言われました!)

さすがに俺ほど号泣する人間はそうそういないと思うが、マンガでもアニメでもいいから、一度は手にとってもらいたいし、観てもらいたい作品である。

俺はいつか、このような作品を書きたいと思っている。
それは過酷な物語という意味ではなく、人の心に突き刺さるような物語を書いてみたい。

それが俺の目標だ。


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