みやび萬紅堂。
いらっしゃいませ。コメントはお気軽に。
DATE: 2008/08/11(月)   CATEGORY: 夕方シリーズ
夕方、幸せの魔法使い。
 桃花がユウに駆け寄っていった。片手には画用紙を持っていて、それをユウに見せつけている。
「ねえ、みてみて! パパの絵!」
 まるで人とは思えない左右で大きさの違う目、耳と鼻はなく、頭の形のおかしかった。まあ、幼稚園児の絵なんてこんなものだな、とユウは笑う。
「おー! 上手に描けたなぁ。きっとパパも喜ぶぞー」
「うん!」
 大学の先輩夫婦の頼みとはいえ、娘のいない自分が、父の日に父として出席していることに違和感を覚えていた。でも、桃花は自分の妹のように可愛がっていたし、ユウも嫌ではなかった。まあ、妹にしては、当たり前だが年齢は離れすぎているが。
「トーカちゃんのパパ、みて。ユウリのパパー!」
 実際は誰の父親でもないのだが、と思わず苦笑する。
 しかし見てみると、桃花よりもだいぶ上手にその絵は描けていた。
その様子を見ていたユウリの父親が、困ったような笑みを浮かべ、ユウに軽く会釈をした。「すみません」
「いえいえ」ユウは笑顔で返した。
「若いお父さんですね」
「実は僕の子じゃないんですよ。大学のときの先輩の子で、この子の父親が来れないので、今日は父親代理です」
「それはそれは…」
 ユウリの父親が続けようとすると、ユウリが思いっきり袖を引っ張った。「パパ、こっちきてー!」
「じゃあ、ちょっと行ってきます」
 弱ったなあ、という表情で、ユウリの父親はユウリに連れて行かれた。
ユウは愛想よく見送った。「行ってらっしゃいませ」

「ユウくん、はやくはやくー!」
 桃花はユウのことを「ユウくん」と呼ぶ。それは桃花の母親の影響だった。
 家路を急ぐ桃花にユウが声をかける。「そんなに急いだら、転んじゃうよー」
「いいからはやくぅー! はやくかえってママにパパの絵をみせてあげるのー!」
「わかったから、そう焦るなって」
 ユウがそう言い終わるかどうかのときに、ベタンと桃花が転んでしまった。
「ほらほら、言わんこっちゃない」
 そう言ってユウが駆けつける前に、私は桃花を起こしてあげた。
「あっ、すみません。ありがとうございます」
 ユウは私にそう言った。
「トーカ、いたいー」
 見ると桃花の左ひざが擦りむけ、淡く滲むように血が出ていた。
「大丈夫か?」
 ユウが尋ねるが、桃花は泣くだけで答えなかった。
「お譲さん、きみにこのキャンディをあげよう」
 私は桃花にキャンディを差し出した。
 桃花はそれを受け取りさえしたが、泣きやんだわけでもない。
「それだけ涙を流せばもう充分でしょう。そのキャンディはとても美味しいから、あとで食べなさい。きっと笑顔になるよ」
 私がそう言うと、ユウが「ホントすみません」と謝った。
「いえいえ――では」
 私はその場を去った。

「あら上手じゃない。これ桃花が描いたの?」
 さやかが尋ねると、桃花は元気よく「うん!」と答えた。もう泣いてはいない。
「ほんとにー? すごいわねぇ。パパが帰ってきたら見せてあげようねー」
 そう言って、さやかは桃花の頭をなでた。
「ユウくん、ごめんね。うちの人が仕事休めないせいで、代理なんて頼んじゃって。でも助かったわ、ありがとう」
「いえいえ。靖先輩も立場上、そう簡単に休めないでしょうし、最近は忙しいみたいですしね」
「ほんと、働きすぎて倒れちゃうんじゃないかってくらい」
 さやかは困った顔をつくってみせた。
「先輩なら、ありえますね」ユウは笑った。
「ママー、アメたべてもいい?」
 桃花が大声で叫んだ。
「アメ?」
「ああ、帰りに途中でもらったんですよ。桃花が転んで泣いちゃってたら、起こしてアメをくれた人がいたんです」
「あらあら」
「なんか不思議な人でしたよ。若く見えたけど、えらく大人びた雰囲気で、なんかタキシードみたいなの着てて」
「――タキシード?」
「ええ。まるでマジシャンみたいでした」

 さやかと桃花に別れを告げると、ユウはミカに電話をかけた。
「あ、ミカ? 俺。今から帰るよ。うん。桃花が会いたがってたよ。先輩もよろしくって。うん、そう。ああ、わかった。すぐ帰るから。うん、じゃあ」
 電話を切るとユウはスクーターにまたがった。
 そのまま空を見上げるとちょうど夕焼けで、鮮やかなグラデーションが奏でられていた。
「キレイだなぁ。ミカに送ってやろうかな」
 ユウはケータイを取り出し、パシャリとカメラ機能で撮った。ディスプレイには綺麗な夕空が映し出された。

「おいしい!」
 思わず桃花が声をあげた。
「あら、よかったねぇ」
 そう言って、さやかはキャンディの包み紙を受け取る。
 ――と、あるものに気がついた。
 包み紙の内側には文字が綴られており、それはこう書いてあった。

(――The magic that happiness visits you.)

「ママ、これなんてかいてるの?」
 桃花も気付いて、さやかに尋ねた。
「これはね、桃花が幸せになりますように――ってかいてあるの」
「へえー」
「どうやら、桃花が会ったのはタキシード姿の魔法使いさんだったみたいね」
「なにそれー?」
「幸せを運んできてくれる素敵な紳士よ」
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DATE: 2008/08/10(日)   CATEGORY: 夕方シリーズ
夕方、やがて傘は訪れる。
「パパー、来週は絶対に来てね!」
 娘のユウリが叫ぶように言った。そんなに大声を出さなくても聞こえるというのに、子供というのは無意味に声をあげる。ただでさえ通る声が、家中に響きわたるようだった。
「ああ、約束だってしたろ? ちゃんと行くよ」
 父の日。母の日にくらべ、それはだいぶ世間から忘れられているようだが、幼稚園に行く子を持つ親にとっては、それは例外的だ。なんたって父親が参加しなければいけない幼稚園行事だからだ。もちろん仕事も休まねばならないし、強制ではないのだが、父親としては出席する方が好ましいのは明らかだ。
 娘のために一肌脱いでやろうという思いもあるが、それ以上に父親はそういつまでも好かれている存在ではないものだから。特に女の子は。仲が良いうちにたくさん思い出をつくっておきたいのも確かである。
 娘が幼稚園に行く仕度を済ませると、妻が「じゃあ送ってくるわね」と娘とともに玄関を出た。
 私の仕事は時間に融通が利く上に、一般のサラリーマンとくらべてだいぶ朝をゆっくり過ごすことができる。職場まではそう遠くないし、いつもギリギリまで家にいることにしていた。

 今日は仕事も少なく、もうやることがなかった。このままだといつもよりだいぶ早く帰ることができそうだ。
 デスクの上にある、三角柱を横にしたようなカレンダーに目をやった。来週のところに小さく「父の日」と書かれている日付がある。そのもう少し先に赤で丸をしている日にちがあった。妻との結婚記念日だ。
 今の妻とは、若い頃に何度か別れ、何度もヨリを戻した。そのたびに当時付き合っていた彼女を傷つけていたことは、私も申し訳なく思う。
 妻とは基本的にケンカが多かった。今ではすっかり落ち着いている私たちだが、昔は違った。まあ、お互いに若かったのだろう。ちょっと気に食わないことがあるとケンカした。そのまま別れるなんてことも少なくはなかった。そして別れている間に違う女とも付き合った。もちろん私は、その相手のことを本気で好きだったし大切に想っていた。けれども、気付けば今の妻のことを想っている自分がいた。そのたびに連絡をとっていたのだ。
 お互いに連絡先を変えないというのは暗黙の了解となっていて、何かあれば互いに助けを求めたし、何もなくても躰(からだ)を重ねるためだけに会ったこともある。そして、そのたびにヨリを戻し、また付き合いを再開していた。結局、自分は今の妻のことが好きなのだとひとり結論付けた。そう思ってからは、以前より優しく接してやることができたし、つまらないことでのケンカもしなくなった。そして6年前の今頃、私たちは結婚した。籍を入れたのだ。

 時計を見上げ、そろそろいいだろうと思い帰り仕度をした。
 帰る前に私の上司にあたる男に、父の日は休むことを改めて確認しておいた。
「俺の娘にもそんな時期があったなぁ。今じゃ口もきいてくれんがね。…まあ、ぞんぶんに親孝行してもらえ。案外、そういうときに一緒に居れることが父親にとっては何よりの孝行だったりするもんだよ」

 外に出ると雨が降り始めていた。
「困ったなあ」
 職場から家までは歩きなのだが、今日は傘を持ってきていない。天気予報では雨だったか。
 一旦職場に戻り、傘があまってないか訊こうかとも考えていると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「あっ! パパー!」
 相変わらず、大きな声がよく通る。
 娘が私に駆け寄ってきた。そのうしろでは妻が、少し困ったような笑みを浮かべているのが見えた。
「ユウリったら、パパに傘を届けるんだって言ってきかなくてね」
 娘の手には、今差されている子供用の傘とは別に、大きな大人用の傘も携えられていた。しかし、娘の手にそれは大きすぎたようで、半ば引き摺られるかたちになっていた。
「はあい、パパ。ユウリ、パパのかさ持ってきたよ! えらい?」
 娘から傘を受け取り、その左手を開放してやった。
「ああ、ありがとう」
 自然と笑みがこぼれるのを感じる。
 私たち家族は並んでに傘を差し、一緒に家路を辿った。
 その中で私といえば、娘の孝行ぶりに、小さな幸せを噛み締め歩いていた。
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DATE: 2008/08/09(土)   CATEGORY: 夕方シリーズ
夕方、今あなたのもとへ。
 窓の外を眺めると、そこには雲があった。わたしは雲の上にいた。なんだか不思議な気分だ。
 私はいま、空の上を時速数百㎞で移動しているのだ。

 ユウと出会ったのはあるバンドのライヴでだった。
 結構大きな会場、ファンは大いに沸き、そこはこれ以上ないくらい盛り上がっていた。その中のひとりに、私もいた。
 途中までは周りと同じく、私も盛り上がることができていた。大好きなバンドだったし、テンションも上がっていた。だけど、ふと冷めた自分の存在に気付く。理由はわかっていた。当時付き合っていた男と別れたのだ。本当は一緒にライヴに行くはずだった。私の隣に、彼がいるはずだった。けど、その男はひそかに浮気をしていて、それを知った私は激怒。それを許せず別れた。いま考え返してみると、どうして許してやれなかったのだろうと思う。浮気くらい許してやるべきだった気もする。まあ頻繁に行なわれるようでは困るが、それが初めての浮気発覚だったし、私ももう少し原因を自分に向けてみるという努力もしてみるべきだったのだろう。
 自分から「別れる」と言ったのに、あんなに寂しかったのはなぜだろう。
 ふいに涙が流れた。
 幸い、あの場に限り、それが不自然な行動ではなかった。以前から感動で泣いている子の姿も見えていたし、誰も私の涙に疑問など抱かないはずなのだ。
 そう思っていたのに――ユウは違った。
 ライヴが終わりひとり帰ろうとしたら、ユウが声をかけてきた。
「あの、よかったら、これから一緒に飯食いに行きませんか?」
 ユウはわたしより全然若く、最初はなんでこんなオバサンなんかにナンパ? などと思っていた。
「実は俺ひとりで来てて、どっちにしろこのあと食べに行くつもりなんです。でもこのままだとひとりで食べることになっちゃうんで。あの、気付いてるかわからないですけど、となりだったんですよ、ライヴ。なんか同じでひとりみたいだったし、声かけてみたんですけど――どうですか?」
 どうせ私もひとりで食べることになるところだったから、ユウの誘いを受けることにした。まあ、少しは浮気をしたあの男へのあてつけ的な気持ちがあったことも否めない。
 近くのファミレスに私たちは入り、ユウはハンバーグとライス。ドリンクにはクリームソーダを頼んだ。少し子供っぽいその注文に、少し笑えた。するとユウは「なにか面白いことでもありました?」と尋ねてきたので適当にごまかした。それが余計に笑いを誘いもしたけれど。
 お互いの食事が終わる頃、私たちは少しだけ親しくなっていた。お互いの趣味が似ていることを知り、一気に打ち解けたのだ。
 音楽の嗜好も一致していることから、そのあと私たちはカラオケに向かった。そこでもユウはクリームソーダを頼んだので思わず「好きなの?」と訊くと「かなり」という答えが返ってきておかしかった。「どうせ子供みたいだとか思ってるんでしょ?」ユウは私の思考を見事に読み、「そこがいいんですよ。懐かしい感じが好きなんです」と言った。
 そして私が何曲か歌い、彼のクリームソーダのバニラアイスが溶けて形を失った頃、ユウは突然、口を開いた。
「なんか悩みとかあるんですか?」
 ドキっとした。私は何の反応も示せず、停止した。
「あの、なんていうか、何かあったんですか? 悩みとかじゃなくても、なんでも」
「――どうして?」
 やっと言えたひとことだった。
「なんか、ライヴ中のミカさん、元気なかったから。――悲しそうっていうか、寂しそうだったっていうか。それに泣いてたし」
 彼は――気付いていたのだ。あの大観衆の中で、唯一。
「もし何かあったなら、話くらいは聞いてあげれるかなって。もちろん話したければでいいんですけど。まあ、こんな若造がなんだって感じかもしれないけど…」
 ユウの優しさが胸にしみた。ただ単純に嬉しかった。
 私は誰かに気付いて欲しかったのかもしれない。――いや、そうだったのだ。ひとりで抱え込むのは苦しくて、誰かに聞いて欲しかった。優しくして欲しかった。同情でもなんでもいい、味方が欲しかったんだ。悪いのは男の方だって、私じゃないって言ってくれる人が。甘えだったってことはわかってた。けど、やはり誰かに甘えたかったのだ。
 それから2時間、私は別れた男の話をした。それに他にも過去に付き合った悲惨な男のこととか、つらい思い出、自分の嫌なところ。普段は人になど絶対に聞かせないような話、誰にも見せないような自分をすべて曝け出した。
 不思議だった。長年の友人にすら話したことのない話まで、私は話していた。お互いに色々と趣味が一致していて、互いのことを知っている気になれていたのがよかったのかもしれない。友人でも赤の他人でもない微妙な距離感が、私を安心させていたように思える。
 その夜、私たちはセックスをした。お互いがびっくりするくらい、気持ちいいセックスだった。
 次の日にユウは地元へと帰っていった。彼の住んでいるところは田舎で、普段はめったにライヴなど行なわれないので、わざわざこんな遠くまで出向いてきたとのことだった。こちらにはいとこが住んでいて、本当はそっちに泊まる予定だったようだ。
 でも、それからも私たちは連絡を取り合った。頻繁にメールをしたし、たまには電話もした。そしていつの間にかに付き合うことになって、いま一年振りに彼に会う。

 飛行機は着陸態勢に入っていた。
 窓から覗くと地上があり、小さく空港が見えた。
 彼は空港まで迎えに来てくれているらしい。
 もうしばらくすると、私はユウと一緒にいる。
 そう考えると、自然に笑顔が浮かぶ自分に気付いていた。
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DATE: 2008/08/07(木)   CATEGORY: 夕方シリーズ
夕方、別れのあとの雨模様。
 雨が降り始めた。午前中はあんなに晴れていたのに。まるで、わたしの涙を隠してくれるかのようだった。傘のないわたしは、降りそそぐ雨を全身で受けながら駅へと向かうことにした。
 雨よ、もっと降れ。もっと烈しく、すべてを流して欲しい。
 まんべんなく濡れてしまいたい。今はまだ小雨に近いけど、次第に強くなっていくことは何となくわかっていた。

 山岡くんとは付き合って半年だった。バスケ部のエースで、勉強もできた。顔もよく、女子にモテた。たぶん、学年で一番人気なのだと思う。そんな彼とわたしが、付き合うなんてそれは奇跡に近かった。わたしがバスケ部のマネージャーではなかったら、きっと接点もなく、話すことすらなかったろうと思う。
 しかし、やはり付き合うなんてありえないことだったのだ。
 わたしは山岡くんのことが好きで、彼もわたしのことが好きだと言ってくれた。そんな奇跡に、わたしは正直に喜んだ。でもそれも半年という短命の恋になってしまった。
こ こ最近、彼がわたしのことを「好き」と言ってくれなくなっていたことは気付いていた。もしかしたらわたしに飽きてしまったのかもしれない。わたしは平凡だし、本来は山岡くんと肩を並べて帰ることができるような器じゃないことはわかりきっていたことだから。
 ――でも。
 でもまさか、C組の康子とデキていたなんて!! そんなのあんまりだ――ひどすぎる。
 他に好きな人ができたなら、言ってくれればいいのに。2人が隠れて付き合っていただなんて――。

 わたしは嗚咽をこらえて泣いた。
 雨はわたしの涙を隠してくれるかもしれないが、嗚咽まではかき消してくれない。音をさえぎるほどの豪雨ではないのだ。
 どん、と誰かにぶつかった。
 それまで周りを見ずに歩いていたわたしは、とっさに謝った。泣いていることに気付かれたくなかったので顔は伏せていた。そしてそのまま過ぎようとすると、相手の人が「大丈夫ですか」と声をかけてきた。――涙に気付かれたのだ!
 思わず顔をあげてしまっていた。そして少し後悔した。「大丈夫ですか?」はぶつかった相手への配慮の言葉だったのかもしれない。
 柔和な表情をした若い紳士だった。――彼を紳士とたとえたのは、その格好がタキシードのように見えたからだ。なんとなく英国の紳士を連想させた。
「おや、目元が腫れてしまっていますね。――どうかしましたか?」
 やはり涙には気付いていなかったようだ。わたしはあえて自分から泣いている姿を晒してしまったようなものだ。
「…大丈夫です」
 紳士を振りきって去ろうとすると、その紳士は優しく声をあげた。
「ちょっと待ってください」
「な、なんですか?」意味もなく狼狽する。
「あなた、傘を持っていませんね」
 若い風貌からは想像もできないくらい、大人の雰囲気にわたしはたじろいでしまっていた。その口調は優しく、静寂だった。
「私の傘を使ってください」
 そう言って手に持つ傘を差し出してきた。
「でも――」
「いいんです。それにびしょ濡れの格好で電車に乗ると、周りの方の迷惑になってしまいます」
 紳士はそう言い、微笑んだ。
「さあ」
 さらに手を突き出され、つい受け取ってしまった。
「人生、苦しいことばかりではないですよ。あなたはまだ若い。これから楽しみもたくさんあります。さあ、元気を出して――とは言いませんが、涙は今日だけで充分でしょう。明日は雨も味方してはくれませんよ」
 なんだか、すべてを見透かされているようだった。この紳士はすべてを知っている――そんな気がしてならない。
「彼も悪気があったわけではありません。今でもあなたのことを大切に思っています。――だけど彼は彼女の方をより好きになってしまった。そのことを彼は申し訳なくも思っています。だからなかなか言い出せなかった。許すのは容易ではないかもしれませんが、彼を責めないであげてください」
 わたしは何も言えなかった。
「それでは。――明日はきっと晴れますよ」
 紳士は雨の中、傘も差さずに消えていった。

 気付くと、傘の持ち手には針金が巻かれていて、そこから伸びた一筋の先には小さな紙が付いていた。まるでクリーニング屋から帰ってくる服に付いているタグだ。そこに何かが書かれていた。

(――The magic that happiness visits you.)

 あなたに幸せが訪れる魔法を――?
 あの人は紳士の姿をした魔法使い?

 なぜか、明日は晴れるような気がした。
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DATE: 2008/08/06(水)   CATEGORY: 夕方シリーズ
夕方、帰宅後の風景。
 アパートに戻りドアを開けると、5歳年下の彼が文庫本を片手に私を見上げた。
「おかえり」
 彼がそう言ってきたので、私は「ただいま」と返した。
「疲れたよー」
 私がそう言うと、彼は「お疲れさま」と返してくれた。しかしもうその目線は、再び手元の文庫本へと戻っていた。
 本を読むときの彼の集中力は並大抵のものではない。それが他のことでも発揮されないのが残念だが、私は彼のそんなところも嫌いではなかった。なんか、彼らしいと思う。それに読書に勤しむ彼の横顔は真剣そのもので、それを眺めるのが好きだ。
 …なんて思っているうちに「読み終わった」と言い、彼はパタンと本を閉じた。
「もう読んだの?」
 私が驚いてみせると、「うん。だって今日ずっと読んでたし」と彼は言った。しかしたとえ一日中読んでいたとしても、その聖書のようなおそるべきヴォリュームの本を、もう読みきってしまうなんて、私には到底できそうにない。
「お腹空いたー」と彼が嘆いた。
 自称・アメ車の彼は燃費が悪い。ものすごい量をひとりで食べる。さらに驚くべきは、その脅威としかいえない空腹までのペースだ。食べたと思えば次に出てくるのが「お腹空いた」なのだから、もはや困ってしまうというかあきれる。
「本を読んだあとは、おそろしく空腹だよ」
「はいはい、いま作るから」
 今日は彼の好きなパスタにするつもりなのだが、彼には2人分の量を出してやろうか。しかしそれでも「足りない」と言われそうで、想像だけで少し笑ってしまう。
「…でもその前に!」
 私は思いっきり両手を広げ彼を見た。
「ん?」
 彼は私を見ると、軽く笑顔を作り、それまで掛けていた眼鏡を外してテーブルの上に置いた。
「仕方ないなぁ」というのは彼の些細な照れ隠しなのは知っている。でも望みどおり私をギュッと抱きしめてくれた。
 この瞬間、私はとても幸せになる。言いようのない幸せ。あー、好き! 叫びたくなる。
「大好きだよ」
 私より先に彼が口に出した。
「もう! 私も大好きっ!」

 ぐるるるるるー。

 部屋中に響きわたるほど豪快に、彼の腹の虫が鳴った。
「わかった、ごめんごめん。いま作る」
 私は名残惜しい気もしながら、彼から離れ、キッチンに向かった。
「何か手伝おうか?」
「ううん、大丈夫」
 それを聞くやいなや、彼は新たな文庫を取り出し、ページをめくった。
 もう、腹の虫に本の虫。ほんと仕方ないやつだ。
 ひとり笑顔で口元をほころばせながら、私は晩ご飯作りを始めた。
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