夏のしらべ(8) 「エピローグ」
えりなの母親が病院に着いたとき、彼女はもう息を引き取っとったあとだった。六飛は母親に、えりなの最期を告げる。
「お母さんに、ありがとうって言ってました。お母さんのところに生まれることが出来て幸せだったって」
母親の頬に涙が伝った。
「ありがとうだなんて――それはわたしのセリフなのに」
涙の粒が次々の溢れ、院内に嗚咽がこだました。
「えりなはあなたと出会えて幸せだったと思う。――ありがとうね」
***
その後、月日は流れて六飛は高校を卒業した。そして町を離れた。
今は各地を旅してまわっている。できるだけ数多くのものを見ようと思ったのだ。
老人が声をかけてきた。髪はもうほとんどが白くなっていた。
「何をしているのかな?」
老人は彼に尋ねた。
「絵を描いているんです」
それは、まるで絵本のようだった。画用紙にはここから見える景色が描かれ、その横に短い文章が書かれていた。
老人は目元を緩ませた。そこには男の子と女の子が描かれていて、2人は仲良く楽しそうに笑っていた。――それはとても幸せそうな笑顔だった。
(FIN)
「お母さんに、ありがとうって言ってました。お母さんのところに生まれることが出来て幸せだったって」
母親の頬に涙が伝った。
「ありがとうだなんて――それはわたしのセリフなのに」
涙の粒が次々の溢れ、院内に嗚咽がこだました。
「えりなはあなたと出会えて幸せだったと思う。――ありがとうね」
***
その後、月日は流れて六飛は高校を卒業した。そして町を離れた。
今は各地を旅してまわっている。できるだけ数多くのものを見ようと思ったのだ。
老人が声をかけてきた。髪はもうほとんどが白くなっていた。
「何をしているのかな?」
老人は彼に尋ねた。
「絵を描いているんです」
それは、まるで絵本のようだった。画用紙にはここから見える景色が描かれ、その横に短い文章が書かれていた。
老人は目元を緩ませた。そこには男の子と女の子が描かれていて、2人は仲良く楽しそうに笑っていた。――それはとても幸せそうな笑顔だった。
(FIN)
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夏のしらべ(7) 「月夜( in moon light shadow...)」
ケータイが鳴った。六飛はディスプレイに<深凪さん>の文字も見取ると急いで電話に出た。
「もしもし、六飛くん?」
こんな夜遅くにどうしたんだろう。六飛は少し不安になった。
「お散歩に行きませんか?」
「こんな遅くに?」
「今夜は月が綺麗なんです。…ダメですか?」
月が綺麗に見える夜は、えりなはよく家を抜け出して散歩に出ることは六飛も知っていた。もし今断っても、彼女はひとりで散歩に行くかもしれない。
「わかった、いいよ。今準備するから」
六飛は着替えて、家を出た。
満月の綺麗な夜だった。えりなは外に出ずにはいられなかった。どうしても六飛と一緒に月を眺めたくて、迷惑かなと思いつつも電話をした。彼はあっさりOKしてくれて、えりなは約束の公園に向かった。
公園で六飛を待っていると、入口に人影が見えた。たぶん六飛だろう。えりなは手を振った。すると月明かりに照らされて、彼の笑顔が見えた。それだけで少し嬉しくなる。
「思ってたより少し肌寒いね。昼が暑いから夜も暑いのかと思っちゃった」六飛は両腕をさすって温めるポーズをした。「えりなは寒くない?」
「わたしは大丈夫だよ。むしろ少し暑いくらい」
今では六飛はえりなのことを「えりな」と呼ぶ。もう「深凪さん」でも「えりなさん」でもなかった。実はえりなが「さん付けはやめて」と言っていて、それで六飛も彼女を「えりな」と呼ぶことにしていた。まだ慣れないからか六飛が「えりな」と言うと、2人とも少し恥ずかしそうに笑う。
「ねえ、見て。満月がすごく綺麗」
六飛も見上げると、そこでは星々が燦々と輝き、大きな満月が綺麗に浮かんでいた。
「ほんとだ…すごいね」
思わず感嘆の声が漏れた。
「でしょ? これを六飛と一緒に見たかったんだ」
えりなは照れながらそう言った。六飛と同じように、えりなも彼のことは呼び捨てにしていた。それは「俺だけじゃフェアじゃないから…その、えりなも」という六飛のお願いだった。けれどもえりなは恥ずかしくて「六飛」と「六飛くん」を交互に使っている。
「立ってるの疲れない? そこのベンチに座ってゆっくり見ようか」
六飛がベンチに向かって歩き始めた。そのとき――
――バタッ。
えりなが少し咳き込んだと思ったら、彼女は地面に倒れていた。六飛は突然のことに焦り、どうすればいいのかわからなくなる。
「えりなッ、大丈夫!?」
六飛はえりなに駆け寄った。
彼女を起こそうとして触れると彼女の体は異様に熱かった。
(――熱がある? もしかして体調が悪かったのか!!?)
「おいッ! えりな! 頼むから返事をしてくれ!」
えりなは小さく唇を動かすが、それは声にまでならなかった。喉の奥で言葉はことごとく消失していった。
「俺はどうすればいいんだ!!」
六飛のエメラルドグリーンの瞳が、涙で陽炎の如くゆらめいた。
(……救急車? そうか、救急車か! そうだ早く電話を――)
六飛は大慌てでケータイを取り出し、急いで119をプッシュした。
トゥルルルルルル……、トゥルルルルルル……ガチャっ――
「――もしもし!!? あの、彼女が! 彼女が倒れたんです! 出来るだけ早く救急車をお願いします!」
六飛は焦っていた。このままではえりなが死んでしまう…。彼は何を言っているのか自分でもわからないでいた。
相手のオペレーターになだめられ、六飛は徐々に冷静さを取り戻す。落ち着いて今いる場所を説明して、救急車の到着を待つことにした。
***
もう夜も遅いというのに電話が鳴った。誰かと受話器を取ると、相手は六飛だった。えりなにを呼ぼうかと思ったら、彼に止められた。
「えりなさんが……倒れました」
一瞬何のことだかわからず、ただ「え?」と間の抜けた声を出すはめになってしまった。
「えりなさんが倒れたんです」彼はゆっくりとした口調で説明を始めた。「えりなさんはそっと家を抜け出して外に散歩に出てました。実は月の綺麗な夜に、彼女が散歩に出るのはよくあることだったんです。
今夜は俺のところに電話がきました。一緒に散歩しないかって。もし断っても、そのときはひとりで散歩に出そうだから俺はそれを了解したんです。彼女はそういうところが意外と頑固だったから。それで俺は約束した公園で彼女と会いました。彼女は空を見上げて月が綺麗だと俺に言ってきました。俺も同じように見上げて、同じことを思いました。そして少し目を離したときに、彼女は倒れたんです。次に見たときは公園の地面に横たわっていました。俺は救急車を呼んで、今彼女と病院にいます。今から病院の場所を教えるのでここに来てください。場所は――」
***
えりなの声が聞こえた。六飛は慌てて耳を傾ける。
「どうした? 今救急車を呼んだから大丈夫だよ」
彼女の口がゆっくりと動く。
「わたし、もう死んじゃうかも」
思わぬセリフに、六飛はつい凍った。
いや、彼自身も、そうではないかという予感はしている。
「だから最後にわたしの話を聞いて。お願いだから最後まで聞いて欲しいの…」
そんなこと言うなよ!――六飛はそう大声をあげそうになったが、もし本当に彼女の最期となるならこの話は聞いてやらなくてはいけない。彼は静かにゆっくりと頷いた。
「わたしの命がもう長くはないって、実は知ってたの。お母さんはわたしに隠そうとしてたみたいだから、わたしも知ってることを黙ってたんだけどね」
六飛は彼女の言葉をひとことも漏らさないように真剣に耳を傾けた。
「お母さんに伝えて欲しいの。わたしはお母さんのところに生まれて嬉しかった。わたしじゃ十分幸せに生きたよ。…でもこうなってしまってごめんなさい。お母さんより先にって、わたし親不孝ものだよね」
首を横に振った。そんなことない。六飛の口から小さく漏れた。その半分は嗚咽だった。
「あのね、六飛くんと出会えてわたしはとっても幸せものだと思う。好きだって言ってもらえて、すごい嬉しかった。一緒にいろんなところを散歩して楽しかったな。六飛くんと一緒だと、何でもすごく楽しい。不思議だね」
そうだね。もはやそれは声にもなっていない。
「今まで十分楽しかったんだけど、それでもまだまだ足りないの。もっといっぱい、いろんなとこを見たい。そう思っちゃう。わたしって欲張りだね」
「一緒に、見よう」精一杯力を振り絞って言った。
「ありがと。これからも…わたしと一緒にいてくれますか?」
「当たり前じゃん。ずっとずっと一緒だよ。約束したでしょ? いろんなとこを見てまわろう。それでえりなの笑顔、いっぱい見せてよ」
「うん、そうだね。…約束したんだよね」
えりなの目に涙が浮かんでいるのに気付いた。
「…ごめんね……約束果たせそうにない」
そんなこと言わないで欲しかった。でもそれすらも伝えられない。嗚咽を堪えるのに必死だった。
「この夏休みは、とっても幸せだった…」
「ありがとう」
気付けばサイレンが鳴り響いていた。きっと救急車のものだろう。それがわかっても今の六飛には安心も期待を抱けなかった。
もう、えりなの命は尽きようとしている。なぜかそれだけは理解していた。
「俺こそありがとう。俺も幸せだった」
「ありがとう」
「もしもし、六飛くん?」
こんな夜遅くにどうしたんだろう。六飛は少し不安になった。
「お散歩に行きませんか?」
「こんな遅くに?」
「今夜は月が綺麗なんです。…ダメですか?」
月が綺麗に見える夜は、えりなはよく家を抜け出して散歩に出ることは六飛も知っていた。もし今断っても、彼女はひとりで散歩に行くかもしれない。
「わかった、いいよ。今準備するから」
六飛は着替えて、家を出た。
満月の綺麗な夜だった。えりなは外に出ずにはいられなかった。どうしても六飛と一緒に月を眺めたくて、迷惑かなと思いつつも電話をした。彼はあっさりOKしてくれて、えりなは約束の公園に向かった。
公園で六飛を待っていると、入口に人影が見えた。たぶん六飛だろう。えりなは手を振った。すると月明かりに照らされて、彼の笑顔が見えた。それだけで少し嬉しくなる。
「思ってたより少し肌寒いね。昼が暑いから夜も暑いのかと思っちゃった」六飛は両腕をさすって温めるポーズをした。「えりなは寒くない?」
「わたしは大丈夫だよ。むしろ少し暑いくらい」
今では六飛はえりなのことを「えりな」と呼ぶ。もう「深凪さん」でも「えりなさん」でもなかった。実はえりなが「さん付けはやめて」と言っていて、それで六飛も彼女を「えりな」と呼ぶことにしていた。まだ慣れないからか六飛が「えりな」と言うと、2人とも少し恥ずかしそうに笑う。
「ねえ、見て。満月がすごく綺麗」
六飛も見上げると、そこでは星々が燦々と輝き、大きな満月が綺麗に浮かんでいた。
「ほんとだ…すごいね」
思わず感嘆の声が漏れた。
「でしょ? これを六飛と一緒に見たかったんだ」
えりなは照れながらそう言った。六飛と同じように、えりなも彼のことは呼び捨てにしていた。それは「俺だけじゃフェアじゃないから…その、えりなも」という六飛のお願いだった。けれどもえりなは恥ずかしくて「六飛」と「六飛くん」を交互に使っている。
「立ってるの疲れない? そこのベンチに座ってゆっくり見ようか」
六飛がベンチに向かって歩き始めた。そのとき――
――バタッ。
えりなが少し咳き込んだと思ったら、彼女は地面に倒れていた。六飛は突然のことに焦り、どうすればいいのかわからなくなる。
「えりなッ、大丈夫!?」
六飛はえりなに駆け寄った。
彼女を起こそうとして触れると彼女の体は異様に熱かった。
(――熱がある? もしかして体調が悪かったのか!!?)
「おいッ! えりな! 頼むから返事をしてくれ!」
えりなは小さく唇を動かすが、それは声にまでならなかった。喉の奥で言葉はことごとく消失していった。
「俺はどうすればいいんだ!!」
六飛のエメラルドグリーンの瞳が、涙で陽炎の如くゆらめいた。
(……救急車? そうか、救急車か! そうだ早く電話を――)
六飛は大慌てでケータイを取り出し、急いで119をプッシュした。
トゥルルルルルル……、トゥルルルルルル……ガチャっ――
「――もしもし!!? あの、彼女が! 彼女が倒れたんです! 出来るだけ早く救急車をお願いします!」
六飛は焦っていた。このままではえりなが死んでしまう…。彼は何を言っているのか自分でもわからないでいた。
相手のオペレーターになだめられ、六飛は徐々に冷静さを取り戻す。落ち着いて今いる場所を説明して、救急車の到着を待つことにした。
***
もう夜も遅いというのに電話が鳴った。誰かと受話器を取ると、相手は六飛だった。えりなにを呼ぼうかと思ったら、彼に止められた。
「えりなさんが……倒れました」
一瞬何のことだかわからず、ただ「え?」と間の抜けた声を出すはめになってしまった。
「えりなさんが倒れたんです」彼はゆっくりとした口調で説明を始めた。「えりなさんはそっと家を抜け出して外に散歩に出てました。実は月の綺麗な夜に、彼女が散歩に出るのはよくあることだったんです。
今夜は俺のところに電話がきました。一緒に散歩しないかって。もし断っても、そのときはひとりで散歩に出そうだから俺はそれを了解したんです。彼女はそういうところが意外と頑固だったから。それで俺は約束した公園で彼女と会いました。彼女は空を見上げて月が綺麗だと俺に言ってきました。俺も同じように見上げて、同じことを思いました。そして少し目を離したときに、彼女は倒れたんです。次に見たときは公園の地面に横たわっていました。俺は救急車を呼んで、今彼女と病院にいます。今から病院の場所を教えるのでここに来てください。場所は――」
***
えりなの声が聞こえた。六飛は慌てて耳を傾ける。
「どうした? 今救急車を呼んだから大丈夫だよ」
彼女の口がゆっくりと動く。
「わたし、もう死んじゃうかも」
思わぬセリフに、六飛はつい凍った。
いや、彼自身も、そうではないかという予感はしている。
「だから最後にわたしの話を聞いて。お願いだから最後まで聞いて欲しいの…」
そんなこと言うなよ!――六飛はそう大声をあげそうになったが、もし本当に彼女の最期となるならこの話は聞いてやらなくてはいけない。彼は静かにゆっくりと頷いた。
「わたしの命がもう長くはないって、実は知ってたの。お母さんはわたしに隠そうとしてたみたいだから、わたしも知ってることを黙ってたんだけどね」
六飛は彼女の言葉をひとことも漏らさないように真剣に耳を傾けた。
「お母さんに伝えて欲しいの。わたしはお母さんのところに生まれて嬉しかった。わたしじゃ十分幸せに生きたよ。…でもこうなってしまってごめんなさい。お母さんより先にって、わたし親不孝ものだよね」
首を横に振った。そんなことない。六飛の口から小さく漏れた。その半分は嗚咽だった。
「あのね、六飛くんと出会えてわたしはとっても幸せものだと思う。好きだって言ってもらえて、すごい嬉しかった。一緒にいろんなところを散歩して楽しかったな。六飛くんと一緒だと、何でもすごく楽しい。不思議だね」
そうだね。もはやそれは声にもなっていない。
「今まで十分楽しかったんだけど、それでもまだまだ足りないの。もっといっぱい、いろんなとこを見たい。そう思っちゃう。わたしって欲張りだね」
「一緒に、見よう」精一杯力を振り絞って言った。
「ありがと。これからも…わたしと一緒にいてくれますか?」
「当たり前じゃん。ずっとずっと一緒だよ。約束したでしょ? いろんなとこを見てまわろう。それでえりなの笑顔、いっぱい見せてよ」
「うん、そうだね。…約束したんだよね」
えりなの目に涙が浮かんでいるのに気付いた。
「…ごめんね……約束果たせそうにない」
そんなこと言わないで欲しかった。でもそれすらも伝えられない。嗚咽を堪えるのに必死だった。
「この夏休みは、とっても幸せだった…」
「ありがとう」
気付けばサイレンが鳴り響いていた。きっと救急車のものだろう。それがわかっても今の六飛には安心も期待を抱けなかった。
もう、えりなの命は尽きようとしている。なぜかそれだけは理解していた。
「俺こそありがとう。俺も幸せだった」
「ありがとう」
夏のしらべ(6) 「恋人(lovers)」
ドキドキして眠れなかった。眠ろうとすればするほど意識が冴えてしまう。
(なんだろう――?)
えりなは思った。
――明日、またあの公園で会えないかな。
(返事――もらえるのかな?)
――そう、えりなさんが俺に好きだって伝えてくれたあの公園。
(六飛君――)
――あのときと同じ時間に。俺、待ってるから。
(――すこしは期待してもいい?)
六飛の答えはどっちなんだろう?
彼女は期待と不安が入り混じった感情に包まれながら、次第にまどろみ、ゆっくりと眠りに就いた。
***
あのときと同じ時間に――。たぶん今行けば六飛よりは早く着くだろう。えりなはそう思っていた。しかし着いてみるとすでに六飛はそこにいた。あのときと同じベンチに腰を降ろして――。
緊張しながらも近付いていく。途中で六飛が気付き、えりなに笑いかけた。
「こんにちは」
なんだろう。いつもの六飛なのに、いつもと何かが違う。
「えりなさんも座ってよ」
言われるままに、えりなはベンチに座った。
今日の六飛は、今までにないくらい落ち着いている。
「あの、話って――」
「好きです」
「――え?」
六飛はもう一度ゆっくりと言った。
「俺もえりなさんのことが好きです」
えりなの思考はごちゃごちゃに混乱していた。
(うそ、ほんと? 六飛君がわたしのことを――好き? まさか、本当にそんなこと言ってもらえるなんて――思ってもみなかった。わたし、本当は六飛君に自分の気持ちを伝えられただけで充分だった。それがまさか――六飛君にも好きって言ってもらえるなんて!)
「だからえりなさん――」
心臓がドクンドクンと高鳴った。
「俺の彼女になってくれませんか?」
思わず、涙がこぼれた。
「はい。陽向君の彼女にしてください」
ついに2人は恋人同士となった。
***
一緒に街を散策した。知っているはずの街が、まるで異国のような気がした。
2人はいろいろなところを見て歩いた。通ったことのない道を通り、行ったことのないところに行った。今までのテリトリーから、ほんの少し出てみただけで、そこは何もかもが新しく、何もかもが新鮮だった。気に入った坂道やゆっくりできる公園、素敵なカフェなどを見つけるたびに、2人は「こんなに近くにあったのに、今まで損してたね」と笑いあった。
カフェ「MATATABI」にも足を運んだ。例の初老のマスターと外国人ウェイターが、2人を迎えてくれた。相変わらずコーヒーは美味しくて、そこでだけは普段は紅茶派のえりなもコーヒーを頼んだ。六飛がいなかったらこのコーヒーの美味しさも、気付けないままだったのだろうと思うとえりなは嬉しくなった。六飛と一緒だとすべてが楽しい。
「2人でもっといろんなところへ行きたいな」
えりながぽつりと呟いた。
「行きたいね」
「こうやって身近なところだけでも十分に楽しいんだけど、2人で遠くにも行ってみたい。一緒に日本のいろんなところ見てまわりたいし、世界だって見てみたい。一緒に行きたいとこ、見たいもの、したいこと。なんか多すぎて、わたしが生きてる間に全部できるかなぁ」
胸が締めつけられるようだった。えりなは自分の命が残りわずかだということを知らない。彼女の母親はそれを知らせたくはないようで、誰も彼女にそのことを伝えてはいなかった。…ただ。えりなは自分が長く生きられる身ではないことは知っている。病気の為に、六飛とずっと一緒にいるなんて幻想に過ぎないことを知っていた。だから彼女は必死に「今」を楽しもうとしていた。六飛と一緒にいられる「今」を大事に生きていた。
「見に行こう。いろいろなとこ。約束するよ…すぐには無理かもしれないけど、絶対にえりなを連れていく」
ふと切ない表情がよぎった気がした。しかしえりなは笑顔で答えた。
「うん。ありがとう」
(なんだろう――?)
えりなは思った。
――明日、またあの公園で会えないかな。
(返事――もらえるのかな?)
――そう、えりなさんが俺に好きだって伝えてくれたあの公園。
(六飛君――)
――あのときと同じ時間に。俺、待ってるから。
(――すこしは期待してもいい?)
六飛の答えはどっちなんだろう?
彼女は期待と不安が入り混じった感情に包まれながら、次第にまどろみ、ゆっくりと眠りに就いた。
***
あのときと同じ時間に――。たぶん今行けば六飛よりは早く着くだろう。えりなはそう思っていた。しかし着いてみるとすでに六飛はそこにいた。あのときと同じベンチに腰を降ろして――。
緊張しながらも近付いていく。途中で六飛が気付き、えりなに笑いかけた。
「こんにちは」
なんだろう。いつもの六飛なのに、いつもと何かが違う。
「えりなさんも座ってよ」
言われるままに、えりなはベンチに座った。
今日の六飛は、今までにないくらい落ち着いている。
「あの、話って――」
「好きです」
「――え?」
六飛はもう一度ゆっくりと言った。
「俺もえりなさんのことが好きです」
えりなの思考はごちゃごちゃに混乱していた。
(うそ、ほんと? 六飛君がわたしのことを――好き? まさか、本当にそんなこと言ってもらえるなんて――思ってもみなかった。わたし、本当は六飛君に自分の気持ちを伝えられただけで充分だった。それがまさか――六飛君にも好きって言ってもらえるなんて!)
「だからえりなさん――」
心臓がドクンドクンと高鳴った。
「俺の彼女になってくれませんか?」
思わず、涙がこぼれた。
「はい。陽向君の彼女にしてください」
ついに2人は恋人同士となった。
***
一緒に街を散策した。知っているはずの街が、まるで異国のような気がした。
2人はいろいろなところを見て歩いた。通ったことのない道を通り、行ったことのないところに行った。今までのテリトリーから、ほんの少し出てみただけで、そこは何もかもが新しく、何もかもが新鮮だった。気に入った坂道やゆっくりできる公園、素敵なカフェなどを見つけるたびに、2人は「こんなに近くにあったのに、今まで損してたね」と笑いあった。
カフェ「MATATABI」にも足を運んだ。例の初老のマスターと外国人ウェイターが、2人を迎えてくれた。相変わらずコーヒーは美味しくて、そこでだけは普段は紅茶派のえりなもコーヒーを頼んだ。六飛がいなかったらこのコーヒーの美味しさも、気付けないままだったのだろうと思うとえりなは嬉しくなった。六飛と一緒だとすべてが楽しい。
「2人でもっといろんなところへ行きたいな」
えりながぽつりと呟いた。
「行きたいね」
「こうやって身近なところだけでも十分に楽しいんだけど、2人で遠くにも行ってみたい。一緒に日本のいろんなところ見てまわりたいし、世界だって見てみたい。一緒に行きたいとこ、見たいもの、したいこと。なんか多すぎて、わたしが生きてる間に全部できるかなぁ」
胸が締めつけられるようだった。えりなは自分の命が残りわずかだということを知らない。彼女の母親はそれを知らせたくはないようで、誰も彼女にそのことを伝えてはいなかった。…ただ。えりなは自分が長く生きられる身ではないことは知っている。病気の為に、六飛とずっと一緒にいるなんて幻想に過ぎないことを知っていた。だから彼女は必死に「今」を楽しもうとしていた。六飛と一緒にいられる「今」を大事に生きていた。
「見に行こう。いろいろなとこ。約束するよ…すぐには無理かもしれないけど、絶対にえりなを連れていく」
ふと切ない表情がよぎった気がした。しかしえりなは笑顔で答えた。
「うん。ありがとう」
夏のしらべ(5) 「初恋(fall in love)」
えりなは昔から病弱な少女だった。それは彼女の生まれつきの病に起因しているもので、彼女が背負った宿命のようなものだ。彼女は勉強の成績はよかったが、体育だけは見学が多かった。あまり激しい動きができなかったし、おかげで運動が苦手だった。
成績がよかったのは単にえりなが努力家だったということにほかならない。学校を休みがちだったえりなは普通の生徒の何倍も勉強をした。母親を安心させたかった気持ちもあるが、彼女自身勉強を嫌いではなかった。何より学ぶことの楽しさを知っていた。
成績はよかったが、学校にあまり行けず、さらには人見知りなえりなには友達らしい友達ができなかった。それでも彼女は学校に行くことが嫌ではなかった。休み時間は読書に使っていたし、話す相手なら帰ったら母親がいた。母親にはその日に読んだ本の内容を話したし、一緒に料理を作ったりもした。彼女にとって母親であり、友達だったのだ。
そんな日常が高校に入ってがらりと姿を変えた。
その日の彼女は朝から体調が悪かった。いつもなら休み時間には読書をするのだが、そんな気分にもなれなかった。そんなときだ。
「大丈夫?」
誰かの声が聞こえた。最初は自分に向けられたものだとわからなかったのだが、繰り返しその声が聞こえてやっと自分が声をかけられているのだと気付いた。
「具合悪そうだけど、大丈夫? 顔色悪いよ」
普段母親以外と話さない彼女は、緊張で言葉に詰まった。
「立てる? 一緒に保健室に行こうか?」
頭の中が真っ白になった気分だった。過去には出会ったことのないケース。もはや予想外のハプニングに近い。
それでも、嬉しかった。
人に心配されるって嬉しいことなんだ。このとき初めてえりなはそれを知った。いや、それよりも人と触れ合うことの嬉しさを知ったのかもしれない。
その日は帰ってすぐに母親にそのことを話した。男の子と話した。一緒に保健室に行ってもらった。なんだかすごい嬉しかったの。彼女の母親はそれを楽しそうに聞いていた。
それが陽向六飛と深凪えりなの最初の瞬間だった。
そのとき彼女は恋に落ちた。
***
えりなの母親と別れてからも六飛は公園のベンチに座っていた。
彼女の母親に聞かされたえりなのこと。不治の病。六飛が声をかけたときの話。まさかたったあれだけのことが彼女にはそんなに大きな意味だったなんて。六飛は今でも思い出せた。いつもは本を読んでいるえりなが、その日は何もしていなかった。よく見ると顔色が悪い。具合が悪そうだった。それで心配になって声をかけた。それが彼女にとっては大切な思い出になっていたなんて。六飛の頬に涙が伝った。
月明かりを頼りに、六飛は歩いていた。
家に帰る前にほんの少し寄り道をした。このもう少しにえりなの家がある。彼女は今どうしているだろうか。
――もうあの子の命はなくなっちゃうかもしれない。
えりなの母親の言葉が心の底で反芻した。彼女は今も元気にしているのか。心配だった。
「陽向‥くん?」
えっ? 六飛が声の主に目を向けた。そこにはえりなが立っている。
「どう――してここに?」
えりなは恥ずかしそうなポーズをとった。「ちょっと抜け出してきちゃったの」
「抜け出した…?」
「うん。たまに抜け出すの。夜に外に出るとお母さんが心配するから黙って、ね」
「どうして?」
「だって今夜みたいに月の綺麗な夜は、空を見上げながら月明かりの下を歩きたくなっちゃわない?」
えりなは笑った。
六飛も笑った。
「そう、かな。そうかもしれないね」
「うん。そうでしょう」
六飛は夜空を見上げた。そこには大きな満月が浮かんでいた。
「たしかに、綺麗だね。外を歩きたくなるのも無理はない、かな」
「どうかしたんですか?」
「えっ?」
「なんか、見かけたとき元気なさそうだったから…」彼女は一瞬切なげな表情をしたが、すぐにそれを打ち消した。「勘違いならいいんです。それにもう大丈夫そうだし。…わたしの見間違いですね、きっと」
えりなの笑顔を見て、思った。この笑顔、もっと見ていたい。
「あ、そろそろ帰らなくちゃ。すこーしだけ散歩して、すぐに戻らないとお母さんにバレちゃうから」
六飛の中で何かが固まった。それまでおぼろげだった存在が、強くかたちを変えたようだった。
「あの、えりなさん」
(えっ、えりな? いつもは深凪さんって呼ぶのに――)
「明日、またあの公園で会えないかな」
「一緒に散歩した公園ですか?」いつもの六飛とは雰囲気が違う。それにえりなも気付いていた。
「そう、えりなさんが俺に好きだって伝えてくれたあの公園」
一瞬であのときの光景がフラッシュバックする。えりなは思い出しただけで恥ずかしかった。
「あのときと同じ時間に。俺、待ってるから」
「えっ、あの――」
言いかけの言葉は六飛にさえぎられた。
「じゃあ、明日ね。おやすみ」
そう言って六飛は去ってしまった。
残されたえりなはぼんやりと月明かりに照らされながら夜空の下、ぼーっと立っているだけだった。
成績がよかったのは単にえりなが努力家だったということにほかならない。学校を休みがちだったえりなは普通の生徒の何倍も勉強をした。母親を安心させたかった気持ちもあるが、彼女自身勉強を嫌いではなかった。何より学ぶことの楽しさを知っていた。
成績はよかったが、学校にあまり行けず、さらには人見知りなえりなには友達らしい友達ができなかった。それでも彼女は学校に行くことが嫌ではなかった。休み時間は読書に使っていたし、話す相手なら帰ったら母親がいた。母親にはその日に読んだ本の内容を話したし、一緒に料理を作ったりもした。彼女にとって母親であり、友達だったのだ。
そんな日常が高校に入ってがらりと姿を変えた。
その日の彼女は朝から体調が悪かった。いつもなら休み時間には読書をするのだが、そんな気分にもなれなかった。そんなときだ。
「大丈夫?」
誰かの声が聞こえた。最初は自分に向けられたものだとわからなかったのだが、繰り返しその声が聞こえてやっと自分が声をかけられているのだと気付いた。
「具合悪そうだけど、大丈夫? 顔色悪いよ」
普段母親以外と話さない彼女は、緊張で言葉に詰まった。
「立てる? 一緒に保健室に行こうか?」
頭の中が真っ白になった気分だった。過去には出会ったことのないケース。もはや予想外のハプニングに近い。
それでも、嬉しかった。
人に心配されるって嬉しいことなんだ。このとき初めてえりなはそれを知った。いや、それよりも人と触れ合うことの嬉しさを知ったのかもしれない。
その日は帰ってすぐに母親にそのことを話した。男の子と話した。一緒に保健室に行ってもらった。なんだかすごい嬉しかったの。彼女の母親はそれを楽しそうに聞いていた。
それが陽向六飛と深凪えりなの最初の瞬間だった。
そのとき彼女は恋に落ちた。
***
えりなの母親と別れてからも六飛は公園のベンチに座っていた。
彼女の母親に聞かされたえりなのこと。不治の病。六飛が声をかけたときの話。まさかたったあれだけのことが彼女にはそんなに大きな意味だったなんて。六飛は今でも思い出せた。いつもは本を読んでいるえりなが、その日は何もしていなかった。よく見ると顔色が悪い。具合が悪そうだった。それで心配になって声をかけた。それが彼女にとっては大切な思い出になっていたなんて。六飛の頬に涙が伝った。
月明かりを頼りに、六飛は歩いていた。
家に帰る前にほんの少し寄り道をした。このもう少しにえりなの家がある。彼女は今どうしているだろうか。
――もうあの子の命はなくなっちゃうかもしれない。
えりなの母親の言葉が心の底で反芻した。彼女は今も元気にしているのか。心配だった。
「陽向‥くん?」
えっ? 六飛が声の主に目を向けた。そこにはえりなが立っている。
「どう――してここに?」
えりなは恥ずかしそうなポーズをとった。「ちょっと抜け出してきちゃったの」
「抜け出した…?」
「うん。たまに抜け出すの。夜に外に出るとお母さんが心配するから黙って、ね」
「どうして?」
「だって今夜みたいに月の綺麗な夜は、空を見上げながら月明かりの下を歩きたくなっちゃわない?」
えりなは笑った。
六飛も笑った。
「そう、かな。そうかもしれないね」
「うん。そうでしょう」
六飛は夜空を見上げた。そこには大きな満月が浮かんでいた。
「たしかに、綺麗だね。外を歩きたくなるのも無理はない、かな」
「どうかしたんですか?」
「えっ?」
「なんか、見かけたとき元気なさそうだったから…」彼女は一瞬切なげな表情をしたが、すぐにそれを打ち消した。「勘違いならいいんです。それにもう大丈夫そうだし。…わたしの見間違いですね、きっと」
えりなの笑顔を見て、思った。この笑顔、もっと見ていたい。
「あ、そろそろ帰らなくちゃ。すこーしだけ散歩して、すぐに戻らないとお母さんにバレちゃうから」
六飛の中で何かが固まった。それまでおぼろげだった存在が、強くかたちを変えたようだった。
「あの、えりなさん」
(えっ、えりな? いつもは深凪さんって呼ぶのに――)
「明日、またあの公園で会えないかな」
「一緒に散歩した公園ですか?」いつもの六飛とは雰囲気が違う。それにえりなも気付いていた。
「そう、えりなさんが俺に好きだって伝えてくれたあの公園」
一瞬であのときの光景がフラッシュバックする。えりなは思い出しただけで恥ずかしかった。
「あのときと同じ時間に。俺、待ってるから」
「えっ、あの――」
言いかけの言葉は六飛にさえぎられた。
「じゃあ、明日ね。おやすみ」
そう言って六飛は去ってしまった。
残されたえりなはぼんやりと月明かりに照らされながら夜空の下、ぼーっと立っているだけだった。
夏のしらべ(4) 「告白」
カフェ「MATATABI」を出てからしばらくの間、2人は一緒に歩いた。えりなは未だに緊張を隠せなかった。大好きな六飛とこうして並んで散歩してるなんて、以前までなら空想どまりのありえないことだった。六飛は近くにあった公園を見て足を止めた。
「少し休んでいこうか」
六飛の視線の先にベンチがあることに気がついた。えりなは頷き、彼にならってそこに腰掛けた。
「結構歩いたね。疲れた?」
「ううん。大丈夫」
「じゃあもう少し歩く?」
六飛は立ち上がろうとする仕草を見せた。それを見てあわててえりながとめる。
「ちょっと休んでから。…本当は少し疲れちゃった」
「やっぱり」六飛は笑った。「思ったこと言ってもいいのに。遠慮なんていらないよ」
自分のことなどお見通しなんだ、そう思うと恥ずかしい。えりなは恥ずかしさを紛らわせるように「うん」と答えた。
あたり一面に蝉時雨が鳴り響いていた。
「愁の言ったことを真に受けたわけじゃないけどさ」六飛とえりなの目があった。「これじゃまるで本当にデートだね」
ドクン。一度の鼓動でいつもの倍以上の血液が体中に送られている気がする。ドクン。心臓から体中に熱い血液が送られるのを感じる。ドクン。きっと顔なんて真っ赤だ。そう思ってしまったせいでさらにえりなは赤くなった。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもな――」
思ったこと言っていいのに。遠慮なんかいらないよ。
ふいに六飛の言葉が反芻した。
「――きです」
えりなの言葉が空中を舞った。蝉時雨でかき消される。
「え?」
「好き、です」
六飛はえりなを見つめたままいた。彼女の言葉の意味を必死に理解しようとしているのかもしれない。本当はわかっているのに、思考は巡りに巡っていた。
彼女はもう一度、今度ははっきりした声で言った。
「わたし、陽向君のことが好きです。ずっと好きでした」
「あの――」
「去年一緒のクラスだったときから、ずっと、わたし陽向君が好きだった」
六飛はなんて言ったらいいかわからなかった。まさかえりなにこうまで好きだと思われていたとは想像もしたことがなかった。もしも好意があっても、それは友達同士が持つ友情に似たものだと思っていた。けれどまさかこんな――。
「陽向君の気持ちも、聞いていいですか」
「――え?」
おれの…気持ち?
自分はどう思っているんだろう。えりなのことはもちろん好きだ。でもそれはえりなが自分に寄せている想いと同等のものか。――わからなかった。
「…少し待ってくれないかな」
たぶん、自分はえりなのことが好きだ。それでも自信が持てないでいる。原因はなにか――それはわからない。それでもあのえりながここまではっきりと自分の気持ちを伝えてきたのだ。こちらも真剣に想いに応えてあげなければいけない。軽はずみな言動は――できなかった。
「深凪さんの気持ちはわかった。きっと深凪さんはすごい悩んで、すごい勇気を振り絞って好きだってこと俺に伝えてくれたんだと思う」
2人の視線が絡み合う。
「それに対して俺も本気で応えなきゃいけない、って思うんだ。だから少し考えさせてくれないかな。まさか深凪さんがそう思っててくれたなんて全然気付かなくって、嬉しいんだけど、ちょっと混乱してる」
「…わかりました」
六飛は見た。えりなの蒼い瞳は、切なく潤んでいた。
「待ってます。わたしいつまでも待ってます」
気付くと蝉時雨はやんでいた。
***
バイト帰りにどこかで見たことのある女性と出会った。一瞬だけ誰だろうと思ったが、それはすぐに思い出された。えりなの母親だ。お互いに挨拶をすると、えりなの母親がちょっといいかしらと六飛を誘う。彼はそれを了承して、彼女についていった。
着いた先はあのときの公園だった。えりなが六飛に告白をした、あの公園だ。
「ここに座りましょう」
そう言ってえりなの母親が腰をおろしたのは、あのとき2人で座った公園のベンチだった。
「あのね、」
六飛がベンチに腰掛けると、えりなの母親は話し始めた。
「実はね、えりなは――病気なの」
一瞬自分の耳を疑った。「え?」
「あの子は、決して治らない病気にかかっているの」
不治の病。まさか身近にその存在があるなんて、誰が想像するだろう。えりなはその不治の病にかかっていた。そう、彼女が生まれたそのときから。
「本当はね、小学校も卒業できないって病気がわかったときにお医者さまに言われたわ」
一見平気そうにしているが、この母親の苦労な並のものではなかっただろう。それは容易に想像できた。自分が苦しんでるところを娘に見せたくない一心で、気丈に振舞っているのかもしれない。そう思うと、六飛の心が締めつけられるようだった。
「もう小学校を卒業できたときは嬉しくてね、卒業式では大泣きしちゃった。卒業式に出席してた父兄の中でもいちばんの大泣き。でもそれくらい嬉しかった。よく生きててくれたねって、そう思ったの。よくここまで育ってくれたねって」
母親は涙ぐんでいるようだった。当時の記憶が鮮明によみがえってきているのかもしれない。
「小学校も卒業できないって言われてた子が中学校も卒業してくれて、まさか高校に入るまで立派に成長してくれるなんて思ってもみなかった。もう本当にそれだけで親孝行な娘だと思うわ。もう充分なくらい」
彼女は目元に溜まった涙を拭った。
「実はね、去年の冬にはとうとうお医者さまにもう先は長くないって言われたの。半年もつかどうか、そう言われた」
「じゃあ…」六飛が何かを言いかけた。
「もうあの子の命はなくなっちゃうかもしれない。今までは運よくここまで生きてこられた。もう奇跡だわ。でも次こそ本当にダメかもしれない。…もしかしたらまた奇跡が起こらないとも限らないわ。それでも私はもうダメかもって思ってる。母親の予感かな。こんな言う親もどうかとは思うけどね」
六飛は何も言えなかった。何も言えずにいた。
この母親は、自分に何を伝えたいのだろう?
「あの子には――えりなにはもう充分親孝行はしてもらった。だから今度は、これまで頑張ったえりな自身にご褒美をあげたいの」
心臓の高鳴りを感じた。徐々に、しかし確実に心拍数は上がってきている。
「えりなはあなたのことが好きみたい。だから付き合ってあげて、なんて言うつもりはないけど、それでもあの子とは仲良くしてあげてほしい。今までどおりでいいから、どうかあの子のことをよろしく頼みます――」
母親は頭を下げていた。そんなことやめてください。六飛はそう言いたかったが、声にならずに虚空へ消えた。母親の気持ちが痛いほどわかってしまったからだった。
「わかりました」
精一杯の力を振り絞って六飛は言った。
「俺も――えりなさんのことは好きです」
声は震えていた。
「だから…俺の方からもお願いします。えりなさんの残りの時間を俺にください。俺、できる限りの時間を彼女といたいです」
一条の涙がこぼれた。気付かぬうちに六飛は泣いていた。
自分はえりなのことを好きだと知った。どうしようもなく、好きだとわかった。彼女にあとどれだけの時間が残されているのだろう? その時間をできるだけ一緒に過ごしたい。限られた中でできるだけ多くのものを一緒に見て、聞いて、感じたかった。
「えりなさんが大好きなんです」
「少し休んでいこうか」
六飛の視線の先にベンチがあることに気がついた。えりなは頷き、彼にならってそこに腰掛けた。
「結構歩いたね。疲れた?」
「ううん。大丈夫」
「じゃあもう少し歩く?」
六飛は立ち上がろうとする仕草を見せた。それを見てあわててえりながとめる。
「ちょっと休んでから。…本当は少し疲れちゃった」
「やっぱり」六飛は笑った。「思ったこと言ってもいいのに。遠慮なんていらないよ」
自分のことなどお見通しなんだ、そう思うと恥ずかしい。えりなは恥ずかしさを紛らわせるように「うん」と答えた。
あたり一面に蝉時雨が鳴り響いていた。
「愁の言ったことを真に受けたわけじゃないけどさ」六飛とえりなの目があった。「これじゃまるで本当にデートだね」
ドクン。一度の鼓動でいつもの倍以上の血液が体中に送られている気がする。ドクン。心臓から体中に熱い血液が送られるのを感じる。ドクン。きっと顔なんて真っ赤だ。そう思ってしまったせいでさらにえりなは赤くなった。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもな――」
思ったこと言っていいのに。遠慮なんかいらないよ。
ふいに六飛の言葉が反芻した。
「――きです」
えりなの言葉が空中を舞った。蝉時雨でかき消される。
「え?」
「好き、です」
六飛はえりなを見つめたままいた。彼女の言葉の意味を必死に理解しようとしているのかもしれない。本当はわかっているのに、思考は巡りに巡っていた。
彼女はもう一度、今度ははっきりした声で言った。
「わたし、陽向君のことが好きです。ずっと好きでした」
「あの――」
「去年一緒のクラスだったときから、ずっと、わたし陽向君が好きだった」
六飛はなんて言ったらいいかわからなかった。まさかえりなにこうまで好きだと思われていたとは想像もしたことがなかった。もしも好意があっても、それは友達同士が持つ友情に似たものだと思っていた。けれどまさかこんな――。
「陽向君の気持ちも、聞いていいですか」
「――え?」
おれの…気持ち?
自分はどう思っているんだろう。えりなのことはもちろん好きだ。でもそれはえりなが自分に寄せている想いと同等のものか。――わからなかった。
「…少し待ってくれないかな」
たぶん、自分はえりなのことが好きだ。それでも自信が持てないでいる。原因はなにか――それはわからない。それでもあのえりながここまではっきりと自分の気持ちを伝えてきたのだ。こちらも真剣に想いに応えてあげなければいけない。軽はずみな言動は――できなかった。
「深凪さんの気持ちはわかった。きっと深凪さんはすごい悩んで、すごい勇気を振り絞って好きだってこと俺に伝えてくれたんだと思う」
2人の視線が絡み合う。
「それに対して俺も本気で応えなきゃいけない、って思うんだ。だから少し考えさせてくれないかな。まさか深凪さんがそう思っててくれたなんて全然気付かなくって、嬉しいんだけど、ちょっと混乱してる」
「…わかりました」
六飛は見た。えりなの蒼い瞳は、切なく潤んでいた。
「待ってます。わたしいつまでも待ってます」
気付くと蝉時雨はやんでいた。
***
バイト帰りにどこかで見たことのある女性と出会った。一瞬だけ誰だろうと思ったが、それはすぐに思い出された。えりなの母親だ。お互いに挨拶をすると、えりなの母親がちょっといいかしらと六飛を誘う。彼はそれを了承して、彼女についていった。
着いた先はあのときの公園だった。えりなが六飛に告白をした、あの公園だ。
「ここに座りましょう」
そう言ってえりなの母親が腰をおろしたのは、あのとき2人で座った公園のベンチだった。
「あのね、」
六飛がベンチに腰掛けると、えりなの母親は話し始めた。
「実はね、えりなは――病気なの」
一瞬自分の耳を疑った。「え?」
「あの子は、決して治らない病気にかかっているの」
不治の病。まさか身近にその存在があるなんて、誰が想像するだろう。えりなはその不治の病にかかっていた。そう、彼女が生まれたそのときから。
「本当はね、小学校も卒業できないって病気がわかったときにお医者さまに言われたわ」
一見平気そうにしているが、この母親の苦労な並のものではなかっただろう。それは容易に想像できた。自分が苦しんでるところを娘に見せたくない一心で、気丈に振舞っているのかもしれない。そう思うと、六飛の心が締めつけられるようだった。
「もう小学校を卒業できたときは嬉しくてね、卒業式では大泣きしちゃった。卒業式に出席してた父兄の中でもいちばんの大泣き。でもそれくらい嬉しかった。よく生きててくれたねって、そう思ったの。よくここまで育ってくれたねって」
母親は涙ぐんでいるようだった。当時の記憶が鮮明によみがえってきているのかもしれない。
「小学校も卒業できないって言われてた子が中学校も卒業してくれて、まさか高校に入るまで立派に成長してくれるなんて思ってもみなかった。もう本当にそれだけで親孝行な娘だと思うわ。もう充分なくらい」
彼女は目元に溜まった涙を拭った。
「実はね、去年の冬にはとうとうお医者さまにもう先は長くないって言われたの。半年もつかどうか、そう言われた」
「じゃあ…」六飛が何かを言いかけた。
「もうあの子の命はなくなっちゃうかもしれない。今までは運よくここまで生きてこられた。もう奇跡だわ。でも次こそ本当にダメかもしれない。…もしかしたらまた奇跡が起こらないとも限らないわ。それでも私はもうダメかもって思ってる。母親の予感かな。こんな言う親もどうかとは思うけどね」
六飛は何も言えなかった。何も言えずにいた。
この母親は、自分に何を伝えたいのだろう?
「あの子には――えりなにはもう充分親孝行はしてもらった。だから今度は、これまで頑張ったえりな自身にご褒美をあげたいの」
心臓の高鳴りを感じた。徐々に、しかし確実に心拍数は上がってきている。
「えりなはあなたのことが好きみたい。だから付き合ってあげて、なんて言うつもりはないけど、それでもあの子とは仲良くしてあげてほしい。今までどおりでいいから、どうかあの子のことをよろしく頼みます――」
母親は頭を下げていた。そんなことやめてください。六飛はそう言いたかったが、声にならずに虚空へ消えた。母親の気持ちが痛いほどわかってしまったからだった。
「わかりました」
精一杯の力を振り絞って六飛は言った。
「俺も――えりなさんのことは好きです」
声は震えていた。
「だから…俺の方からもお願いします。えりなさんの残りの時間を俺にください。俺、できる限りの時間を彼女といたいです」
一条の涙がこぼれた。気付かぬうちに六飛は泣いていた。
自分はえりなのことを好きだと知った。どうしようもなく、好きだとわかった。彼女にあとどれだけの時間が残されているのだろう? その時間をできるだけ一緒に過ごしたい。限られた中でできるだけ多くのものを一緒に見て、聞いて、感じたかった。
「えりなさんが大好きなんです」