みやび萬紅堂。
いらっしゃいませ。コメントはお気軽に。
DATE: 2009/12/11(金)   CATEGORY: 「怪奇蒐話」
「ママ(下)」
 朝、さっちゃんを送り出してからわたしは食卓の椅子に腰をおろした。今晩は何を食べようか、さっちゃんに久し振りにまともなものを食べさせてあげたいと思う。
 とりあえず買い物に行かなくてはならないと思い、わたしはその支度を始めた。そうすると、ピンポーンのインターフォンが鳴り、わたしは誰だろう?と思いながらそれに応じた。「はい?」
「あ、おはようございます。隣の榊原ですけど」
 どうやら隣に住んでいる榊原さんの奥さんのようだった。
「どうかしましたか?」
「いいえ、あの、こんなこと本当に言いにくいんですけど、最近お宅様のところから変な臭いが漏れ出しているって近所で話題になってて。それで、わたしが代表してそのことをお話に来たんですけれども…」
 変な臭い? そういえばさっちゃんも学校で「くさい」と言われていたようだった。
 わたしはクンクンと部屋の臭いを嗅いだが、別に気になるような異臭はしない。
「そうでしたか。もしかすると捨て忘れてしまったゴミのせいかもしれないわ。本当にごめんなさい。今度のゴミの日にはちゃんと捨てますので、それまではちょっとご勘弁ください」
 ゴミを何週間も捨てていないのは事実だった。もしかしたら本当にこの部屋はくさいのかもしれない。ただ、わたしの鼻が慣れてしまっているだけなのかも。
 次のゴミの日には、溜まっているゴミを必ず処分しようとわたしは思った。
「あら、そうでしたの? 人様の事情に突っ込んでしまってごめんなさいね。でも、もしかして何かあったのかと思いまして、その、心配だったんです」
「……何か?」
「いえ、別に何って決まったことではないんですけれども、何かしら問題が発生しているんじゃないかなって。ご近所さんとも話していたんです」
 問題って、一体何があるというのだ?
 別に正直に「お宅、ちょっとくさいのでどうにかしてください」と言えばいいのに。今後の近所付き合いを慮って、文句にひとつも素直に言えないなんてなんて面倒なのだろう? わたしは社会には向いていないのかもしれない。
「でも何でもないんならいいんです。ゴミ、今度はちゃんと捨ててくださいね。わたくしのところは大丈夫ですけれど、他のご近所さんに迷惑がかかるといけないから」
 わたしは「はい、わざわざ申し訳ありませんでした」と謝ってから、インターフォンを切った。あの遠回しな言い方は何なのだろうか。おかげで買い物に出掛ける気を削がれてしまった。


「ねえ、お母さん。起きてよ」
 体を揺り動かされているのに気付いて、わたしは目を覚ました。
 隣を見遣るとそこではさっちゃんがわたしのことを見上げている。どうやら食卓に伏せって眠っていてしまったようだ。時計を見る。いけない、もう6時を過ぎていた。夕飯どうしよう――?
「さっちゃん、お腹空いたよう」
「ごめんなさい、お母さんつい寝過ぎちゃった。ご飯、どうしよう? ちょっと待ってね。ええと――…」
 もうどうしたらいいかわからなくなっていた。こうなってしまったのも全ては夫のせいだ。夫が今のわたしを作り出してしまった。もう――あの人は―――。
 わたしは夫に対する怒りが溢れ出し、もう何度もかけている番号に電話した。
 携帯を耳に当てる。
「――りません。おかけの電話は電波の届かない場所にあるか電源が入っていないためかかりません。おかけの電話は電波の届かない場所にあるか電源が入っていないためかかりません。おかけの電話は電波の届かな――」
「またあなたなのッ!?」
 わたしの怒りはいろいろなものを通り越して、頂点に達した。思わず手に力が入り、やり場のない怒りをぶつけようと思いっきり携帯電話を投げた。それが窓ガラスを破って外に落ちた。ガラスの破砕音を聞いたさっちゃんが、ビクリとして、わたしのことを見上げている。
「何でもないの――お母さんちょっとカッとしちゃって。ごめん。もう大丈夫だからね? ごめんね。怖かったね。本当にごめん。お母さん失格だね。ごめんね」
 わたしはさっちゃんを抱き締めて泣いた。思わず、涙が溢れた。もうどうしようもなく、わたしは疲れてしまった。わたしにどうしろというのだ? わたしだって、こんな生活を望んだわけではないのに――…。

 ドンドンドン。

 玄関からドアを叩く音が聞こえた。――誰?
「大丈夫ですか? 今大きな音が聞こえたんですけど、大丈夫ですか?」
 若い男の声だった。聞き覚えはない。
「大丈夫ですか? 警察ですけれども、ちょっと開けてもらえませんか?」
 警察。どうしてここに警察が?
 わけがわからない。わたしは何もしていない。わたしは何もしていないのに。わたしは何も何も何も何も何も――…

 ドンドンドン。

 強い力で叩かれるドア。
 繰り返される。繰り返される。
 わたしは悪くない。こうなったのはわたしのせいじゃないのに…。
 わたしだって、本当はもっと幸せな暮らしがしたい。わたしは幸せになりたかっただけ。幸せになりたかった。それだけなの。それだけなのに、これは何? 何がこの状況を作ってしまったの? 何が? 一体何が悪かったの? わたしはどこで間違えたの?


 わたしは―――……


 ***


 何度も繰り返しドアを叩いた末、カチャリと解錠の音は聞こえ、ゆっくりとドアが開いた。
 近隣住民に、窓ガラスが割れるような大きな音がしたと言われ、新米警官の内海は田名部と書かれた表札がある家のインターフォンを押した。しかし反応は全くなく、家の様子を窺ってみると、窓の外に大量のガラス片が散らばり、その中に携帯電話が一緒に落ちていることに気付き、何やら尋常ではない事態が起こっているのではないかと乱暴にドアをノックした。返答がないのは事件の証か――? そう思った瞬間、女のわめき声が聞こえた。
 しばらくドアを叩き続けるうちに、今度は素直にドアが開いた。恐るおそる中を覗いてみると、そこには憔悴しきった女の姿。ドアにもたれかかるように座り込み、呆然とした様子だった。「あの、どうなされました? 大丈夫ですか?」
 騒ぎを聞きつけて集まってきていた近隣住民の中のひとりが、その女を見て、内海に告げた。「この人、この家の人じゃありませんよ! わたしここの奥さんのこと知ってるけど、この人じゃないわ!」
 それを聞いて内海は慌てて家の中へと入った。女は放っておいてもしばらくはそのまま座り込んでいそうだったので、実際放っておくことにした。人も何人か集まってきていることだし、逃げることはないだろう。
 家の中は悪臭が漂っていた。部屋中にゴミが溢れ返っていて、それがこの臭いの原因だと想像するに難くはない。
「おじさん、だれ?」
 リビングに入ってきた内海を見て、女の子が言った。
「お譲ちゃん、大丈夫? 何かあったんじゃない?」
「お母さんがおでんわを投げて、そうしたら窓をバリーンってしちゃったの。それでお母さん泣いちゃった」
「お母さんって玄関にいる人?」
 女の子は玄関の方を覗き見ると「うん」とだけ答えた。
「お父さんは?」
「パパは帰ってこないんだって」
「帰ってこない?」
 出張か何かなのか? それとも、離婚している? いや、しかしこの家は誰のものなのだ? あの母親だという女が、この家をひとりで維持していくのは大変だろう。それにさきほど誰かが「ここの奥さん」と言った。つまりここには少なくとも夫婦が住んでいるはずだ。――あるいはもう亡くなっているのか?
「そっか。じゃあ、ママのところに一緒に行こう」
 内海の言葉に特に他意はなかった。さきほど目の前にいる女の子が「パパ」と言っているのを聞いて、自然と合わせた結果、出た言葉だった。
「うん、いいよ」
 女の子の手を握り、内海は玄関に向かおうとした。
 しかし手を握った女の子は、玄関とは逆の方へと内海を引っ張った。
「どこに行くの?」
「ママのところに行くんでしょ?」
「うん。そうだけど…」
「じゃあこっちだよ」
 内海は女の子に導かれるがままにこの家の風呂場へと向かった。
「あのね、本当は誰にも教えちゃいけないって言われてるんだけどね、おじさんはケーサツのひとだからとくべつに教えてあげるね」
 ひどい悪臭で、内海はむせ返りそうになっていた。――何だ?
「ママ。ママに会いたいっておじさん連れてきたよー」
 女の子は浴槽を塞いでいるフタを開けた。それと同時にグッと臭いは強くなり、内海は思わず吐きそうになった。
「これがママだよ」
 内海は我が目を疑った。
 目の前にあるのは、女性の、死体。
 浴槽の水に浸かっていたせいか、部分部分がドロドロに溶けていた。もはや容姿を留めていないが、長い髪が内海にそれが女性だと教えていた。
「見ちゃダメだ」
 内海は急いで女の子を抱きかかえ、その場をあとにした。
 玄関では放心している女の姿。
 もうわけがわからない。
 とにかく女の子の安全は確保しなければと思って外に出た。
 内海は、脂汗がじわっと全身から噴き出すのを感じた。


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DATE: 2009/12/09(水)   CATEGORY: 「怪奇蒐話」
「ママ(上)」
 玄関のドアが開き、家の中に誰かが入ってくる気配がして目が覚めた。
 タッタッタッ、という幼稚な足音が近付き、この部屋のドアが開いた。「ただいまー」
 元気よく帰ってきた佐知子を見て、わたしは今日の夕飯をまだ決めていないことに気が付いた。冷蔵庫の中身を思い出そうとしたが、それは想像の範疇を出なかった。昨日見たときは何があったっけ?
「おかえりなさい」
 わたしはさっちゃんに手を洗うように促すと、さっちゃんは素直に従った。水道の蛇口が勢いよく捻られ、決壊したダムのように水が放たれた。それにじゃぶじゃぶ、と手を洗う音が続く。
 気だるい体をどうにか立ち上がらせ、冷蔵庫に向かった。が、目の前に来て開けるのに必要な気力が一気に霧散した。近頃のわたしは本当に何もかもが面倒だと感じている。その理由を探したとき、ちらりと夫のことを考えたが、それはすぐに隅に追いやられた。キッチンに置いてあるレジ袋。その中に入ったカップ麺のことを思い出したからだ。
「さっちゃん。今日のご飯、ラーメンでもいいかな?」
 洗って濡れた手を、自分の洋服で拭うさっちゃんが「ラーメン屋さんにいくの?」と期待に満ちた声で言った。あーあ、せっかく手を洗ったのに。洋服で拭いたりしたら駄目でしょう。
「いいえ。お湯を入れて3分待つ方。さっちゃんも好きでしょ?」
 そういえば、昨日も同じだった気がするのだが、どうだったろう?
「さっちゃん、ママのごはんがたべたい」
「お母さん、今日はとっても疲れているの。今日だけじゃない、最近はずっと。どうにも体がだるくて、風邪かしら?」
「ママのごはんがいい」
「わがまま言わないの。ラーメンも好きでしょう? それともさっちゃんはご飯抜きにする?」
「じゃあさっちゃんもラーメンにするー」
「いい子ね。素直な子は好きよ」
 さっちゃんはリビングにあるテレビのスイッチを押し、適当にチャンネルを回すと、好みの番組を見つけたのかそれを観始めた。


 7時半。わたしはお湯を注いで3分待ったあと、さっちゃんと一緒にテレビを観ながらカップ麺を食べていた。
 少し前のわたしなら行儀が悪いと厳しく叱っていただろうが、今のわたしにはそんなエネルギーなどない。むしろ一緒にテレビを観ながら食べた方が、わたしにとっても楽だった。くだらない娯楽番組。まるでわたしの人生のよう。
「ねえ、パパはいつになったら帰ってくるの?」
 さっちゃんの言葉に、わたしは胸を痛めた。
「パパはね、今ちょっと遠くに行ってるから、当分は会えないの。帰ってこないのよ」
 それは半ば事実だが、真実とは若干ズレている。しかしどうしたらこの幼い子供が、父親がもう帰ってこないという現実を受け入れることができるだろうか。
 そう、夫はもうここへは帰ってこない。
 最後に夫に会ったのは、もう1ヵ月も前のことだ。それを最後に夫はわたしの前からも、さっちゃんの前からも消えた。わたしを裏切って、遠いところへ行ってしまったのだ。
 それからだろうか、わたしがこんなにも堕落した人間になってしまったのは。
「さっちゃん。パパに会いたい?」
「うん!」
 悲痛な想いが胸を締め付ける。もう帰ってこないとは知らないこの子が、どうにも可哀相でならなかった。そしてわたしの心には夫を恨む気持ちが膨れ上がった。
 毎晩夫の携帯に電話をかけるが、決まって出るのは見知らぬ女の声だった。その女は人の話を聞かず、いつも同じことを繰り返しわたしに言う。それを聞くたびわたしはどうにも怒りが込み上げてきて、自分の携帯を床に叩きつけたことがある。
「そうだよね、パパに会いたいよね」
 本当のところ、さっちゃんを夫に会わせる方法がないわけではない。わたしは、実のところ夫の居場所を知らないでもないのだ。でも、さっちゃんを夫に会わせるということは、さっちゃんがわたしのもとからいなくなってしまうという惧れがあった。
 もうわたしにはさっちゃんしかいないのに……。


「さっちゃんね、学校でくさいっていわれたの」
 ――くさい? わたしはさっちゃんを抱き寄せて、体の臭いを嗅いでみた。どこもくさいところはない。頭も、体もいたって普通だ。
 もしかしてイジメ? 恐ろしいイメージがわたしの中で膨れ上がった。さっちゃんは学校でイジメに遭っているのだろうか? もし、そうなら、わたしはどうすればいい? 担任に掛け合えばいいのだろうか。いや、それでは根本的な解決にならないような気がする。
「じゃあ、お風呂入ろっか?」
「うん!」
 イジメに対する解決策は思いつかなかったが、とりあえずさっちゃんを安心させるため、彼女をお風呂に入れようと思った。「きっとお風呂できれいに洗ったら、くさくなんかなくなるよ」
 わたしはさっちゃんの衣服を脱がして風呂場へとやった。カップ麺の容器をキッチンへと持っていき、わたしは遅れて風呂場に向かった。
「あのね、ママ、さっちゃん今日さかあがりできるようになったんだよ。すごいでしょ?」
 さっちゃんの声が聞こえた。
「パパにも教えてあげたいんだけど、パパは帰ってこないんだって。いつになったらあえるのかなぁ?」
 誰と話しているのだろう?
「さっちゃん?」
「はーい」
「誰と話していたの?」
「ママと」
「本当に? 誰か他の人と話しているようだったけど」
「ママと話してたんだよ」
「そっか。ごめんね、ちょっと聞いてなかったからもっかい教えてくれる?」
「ママに話してたんだよ?」
「それはわかったから、もっかい話してよ」
「どうして?」
「お母さん、聞いてなかったから」
「ママじゃないもん」
「さっちゃん…?」
「お母さんはママじゃないもん」
「さっちゃん、ちょっとどうしたの? さっきから何を言っているの?」
 わたしは大いに焦った。少し前から、さっちゃんの様子がおかしいことはわかっていた。たまに意味のわからないことを言い出して、わたしを混乱させる。一体どうしたというのだろう? ママとお母さんは違うの? ねえ、さっちゃん。さっちゃんのママは誰? わたしでしょ?
「さっちゃんのお母さんはわたしよ?」
「違うもん」
「さっちゃん、どうしたの? お母さんのこと忘れちゃったの?」
 実は、さっちゃんがこうなる理由に心当たりがあった。先月、この子は強く頭をぶつけてしまったのだ。きっとそのせいだろう。あのときは頭皮がパックリ割れて、血がどぼどぼと溢れ出た。わたしは驚いて傷口を手で押さえようとすると、ズルッと何かが滑った。わずかな頭皮と一緒に髪の毛がべったりとわたしの手に張り付いていた。
 それを見て恐ろしくなってしまったわたしは思わず叫び声を上げて、飛び退いた。そして少しの間、放心してしまい、このままではまずいと思って慌てて裁縫セットを持ってきて、糸を通した針で傷口を縫い合わせ、応急処置をした。しばらくして出血は止まり、大事には至らなかったのだが、あのときの衝撃で脳がダメージを受けてしまっているのかもしれない。――医者に診せた方がいいのだろうか?
「さっちゃんのママはわたしなのよ? いい? さっちゃんのママはわ・た・し。他の誰でもないわ。わかった? ちゃんと思い出してくれた?」
「う…ん…」
 わたしが力強く言った成果か、さっちゃんはわたしのことを思い出してくれたようだった。
 わたしは裸のさっちゃんに頭からシャワーを浴びせ、その次にシャンプーで頭を洗ってあげた。そのときわたしが縫った傷痕が指先に触れて、少しつらい気持ちになった。
「ねえ、さっちゃん。あなたはお母さんのところからいなくならないでね」
「うん」
「ありがとう。いい子ね」
 わたしは再びシャワーを浴びせ、シャンプーの泡を洗い流した。
 本当は湯船にも浸からせてあげたいのだが、浴槽をしばらく掃除していない。そのうちどうにかしなければと思いながらも、放っておいてしまっている。

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DATE: 2009/11/23(月)   CATEGORY: 「怪奇蒐話」
「忍び寄る腐臭(下)」
 さあ、話を戻そうか。
 私はそんなナイトのことを思い出して気付いた。これはあのときの臭いに似ているってね。そう、腐臭だ。何かが腐っているような、おぞましい悪臭だよ。
 それに気付いた私は、急に怖くなって部屋の中を調べた。どこかで何かが腐っているんじゃないか。部屋には腐るようなものなどなかったし、そんなはずないと思っていたのだけれど必死になって調べた。もしかしたらどこかから忍び込んだネズミか何かが死んで腐っているんじゃないかとも思ったのだが、結局何も見つからなかった。しかし翌日になるとその腐臭はさらに強まっていた。
 腐臭の原因は何か――。考えても考えても何も思い浮かぶことはなく、臭いだけが強くなる一方。もはや寝室では寝ることすらできなくなっていた。私は寝床をリビングルームに移した。
 場所を移したのは正しい選択だったようで、私はしばらく腐臭から解放された。大きな屋敷だし、部屋も広い。自室を放棄したとしても何ら問題はなかった。ただソファで寝ることになってしまったが。両親の部屋は辛いことを思い出し過ぎるし、ゲストルームは随分と誰も入っていなく埃まみれになっているだろうことは容易に想像できた。そもそも今となっては客人など誰も訪れないし、ずっと掃除する必要もなかったのだから仕方ないことだった。しかしソファも慣れてしまえば問題はなかった。住めば都、むしろ居心地が良いくらいだった。
 だが、それもひとときの安息にしか過ぎなかったのだ。時間が経つにつれ、あの臭いはリビングにまで侵食してきていた。気付けば自室を使っていた頃よりも強い腐臭に、私の嗅覚は麻痺も寸前になっていた。
 原因は何か。私は屋敷中を調べて回った。
 しかし残念なことにその原因となるようなものは何も見つけることが出来なかった。一体何が起きているのか、私には全くわからず、ただただ悪臭に耐え、苦痛な時を過ごすしかなかった。
 
 ん、この手が気になるのかい?

 いつからだったろうか、耳元で何か羽音のようなものが聴こえるようになった。疲れのせいか、視界に何かチラつくものもあった。この頃の私は生ける屍も同然、何も感じず、ただ無感に、無感に、全ての苦痛から逃れる為に無感になるよう徹した。五感を殺し、心を殺した。それは死んでいないだけの、まさに生ける屍だった。
 そんなときだよ、君の声がしたのは。
 私はふと君の声に気付いて、周りを見回したが、そこには何も見えなかった。そのまま屋敷の中を探し回ったが、どこにも君の姿はなかった。その頃の君は、まだ私に警戒心を抱いていたのかな? まぁ、こんな風貌だし、仕方ないことなのだろう。それともただシャイなだけかもしれないが。あるいはその両方かな?
 それで、そのときは君のことを見つけることは出来なかったが、私は自分の意識がこの体に戻ってきた気がしたんだ。それまで私の心はどこか遠くに行ってしまっていたようで、それがこの体に帰ってきたようだった。そう思うと、今までの自分は何をしていたのだろう? と思った。もう臭いは気にならなくなっていた。いや、そんなことなど忘れてしまっていた。何十年も銅像にでもなっていたような気分だった。それかずっと化石になっていて、発掘されたような、久し振りに空と太陽を見た、そんな気分だろうか。
 久し振りに本を読もう、そう思った。
 そういえば久しくあの書店員に手紙を書いていなかった。気付けば、大量の手紙が溜まっていた。きっと返信がないことを心配してくれたのだろう。
 私はペンを執った。便箋に向かい、文字を綴った。長らく書いていなかったらか、何度も字を間違えた。それを黒く塗りつぶす。黒く。黒く。でも、そんな手紙など読ませるわけにはいかないと思い、新しい便箋を取り出した。また間違えた。それどころが文字にすらなっていなかった。線が踊るように連なっているだけの、暗号にすら見えない書面。どうしたことだろうか。書かないというのは、これほどまで書けなくするものなのか。
 私は力を込めて、しっかりと文字を書こうとした。
 ぼとり、と何かが落ちた。
 何だろうと見てみると、それは指のようだった。
 それは私の指だった。
 理由はわからないが、私の指は取れてしまったのだ。痛みはなかった。出血もなかった。人差し指を失ったのは大きいが、まあ右手にはまだ4本指が残っていると思い、私は書くのを続けようとした。だけれど無理だった。書けなかった。もはや何を書こうとしていたのかもわからなくなっていた。
 私は再び何もしない生活に戻っていた。ただただ時間が経つのを待っていた。だいぶ前から少食になっていて、新しく食材を買わなくてもしばらくは大丈夫に思えた。卵などは腐っているようにも見えたが、きっと死にはしないだろうと思って気にせず食べた。

 そんなときだったよ、君と出会ったのは。

 最初は、何か懐かしい感じがした。たぶんきっとそれは、君がナイトに似ていたからなんだろうな。旧友に会ったような、そんな気分だったよ。
 ナイトのことはずっと苦い思い出だったが、君のおかげでそんな思いからも解放されたようだ。ナイトは生きていたという気持ちになっているのかな? それで罪悪感から逃れられたのかもしれない。君とナイトは違うのにね。
 もう何日も寝ていないのだけれど、今夜はよく眠れる気がするよ。

 おや? 誰かが来たようだ。

 誰だろう? 少し席を外させてもらうね。

 限界に向かい、覗き穴を覗くと、そこにはひとりの女性の姿があった。若くて、はつらつとしていそうな女性。容姿も魅力的だった。
 見覚えはないのだが、私には彼女が誰なのかすぐにわかることが出来た。例の書店の、彼女だ。イメージしていた姿そのままで、どうにも間違えはないだろう。
 どうしよう、と私は思った。開けて会うべきだろうか。しかしこの醜悪な顔を見せたくはない。彼女は傷のことを知っているし、おそらくそんなことなど気にせず、こんな私にも気さくに接してくれるだろう。そういう確信があってもおそろしい。失望されたくないという思いがふつふつと湧いてきた。
 しかしせっかく来てくれたのに、いつまでも外で待たせるわけにもいかない。私は勇気を振り絞って、彼女に会うことにした。
 私は解錠し、ドアを開けた。「こんにちは」
 言ってから、もしかしたら「こんばんは」だったろうかと思った。思えば時間など関係のない生活をしていて、今が昼なのか夜なのかさえわからない。外は暗くなっているように見える。
 私はにこやかに挨拶をしたつもりなのだが、彼女は無言だった。というよりかは言葉を失っているように見えた。
 やはり私の醜い顔に怖気づいてしまったのだろうか。彼女の予想以上に、醜い姿だったのかもしれない。もしかしたら化け物や怪物に見えているのだろうか。
「あの――」
 何か言おうと、しかし何を言うでもなく口を開いた。そのとき、ボトリ、と何かが地面に落ちた。
 見下ろしてみると、そこには白い何かが落ちていた。小さく、そしてよく見ると動いている。
 蛆虫だった。あの、ナイトの死肉を喰らっていた蛆だった。小さくも、おぞましい姿で蠕動(ぜんどう)をしていた。
 私は思わず叫びそうになった。が、どうにか堪えた。彼女と初めて会えたというのに、そのときの印象が絶叫などというのは最悪に他ならない。
 ――しかしなぜ蛆虫が?
 そんな疑問が私の脳裏をよぎると同時に叫び声が聴こえた。
 一瞬、誰が叫んだのかわからなかったが、それは他の誰でもなく目の前の彼女だった。
 突然落ちてきた蛆虫に彼女が驚き、そして恐怖してもおかしくはない。むしろ当然だろう。彼女は当たり前のことながら女の子なのだ。
 私は大丈夫だよ、となだめようと彼女に歩み寄った。
 しかし彼女はそんな私を突き飛ばし、泣き叫ぶように走り去ってしまった。

 何もそこまで怖がることはないと思うのだが…。

 私は突き飛ばされて転んでしまったので、起き上ろうとしたがうまく起き上ることが出来ない。あれ、おかしいな――そう思いながら何度か起き上ろうとしてみたが、駄目だった。一体どうしてしまったのだ。
 もう何もかもがわからなくて、泣きたくなった。
 ああ、私が何をしたというのだ――? これほどまでの仕打ちを受けなければならないようなことを、私はしたのか!! 神よ、私が何をしたのだ!? これは何の罰なのだ! 試練か? 私はそれほど強くはない。試練を与えるならそれは相手を間違えている!!

 声にならない叫びだった。

 そのとき、私は気付いた。さきほどからどうしても起き上れないのは、腕が片方無いせいだ。よく見てみると私の下敷きになっているではないか! それに足も! 足首から下が折れてしまっている。折れた先が地面に転がっているのが見えた。
 嗚呼!!
 溢れ出る涙を拭おうと残っている手を顔にこすりつけた。ぐちゅ、という音とともに指が転げ落ちた。
 どうなっているのだ!! どうなっているのだ!!
 
 ミャア、と猫の鳴き声がした。
 
 ああ、君か。さっきから何がどうなっているのかわからないんだ。助けてくれ。
 私の叫びが聴こえなかったのか、彼は私の取れた指を咥(くわ)え、そのままどこかへと去ってしまった。

 そのまま私は取り残された。

 自分では身動きが出来ず、しかし誰も助けには来てくれない。
 長いこと時間が過ぎたはずなのだが、何の空腹感もなかった。痛みも、暑さも寒さも感じない。大体にして今がどんな季節かもわからかった。
 このまま私は朽ち果てるのを待つしかないのだろうか。

 それともすでに私は朽ち果ててしまっているのだろうか。

 目の前にはひどく黒ずんだ鼻が転がっていた。



 もう二度とこの腐臭に悩むこともなくなるだろう。



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DATE: 2009/11/21(土)   CATEGORY: 「怪奇蒐話」
「忍び寄る腐臭(上)」
 もう何日も眠れぬ日々が続いている。私を苦しめるものの正体が何なのか、それすらもわからないまま苦悩は続き、忍び寄る恐怖に苛まされている。
 この苦しみを理解していただけるだろうか。話したところで何が変わるわけでもないが、しかし、少しはこの憂鬱を払うことができるかもしれない。
 もう私の精神は限界に達しようとしている。今話さなければ今後はこのような機会に恵まれないかもしれないし、だからこうして話そうと思う。
 そう長くはならないと思うが、時間はあるのだろう? 今飲み物でも用意しよう。楽にしていてくれ。

 さて、話を始めようか。

 始まりは数日前のことだった――。


 ***


 最初に、私のことを話しておいた方がいいだろう。その方があとあとになっていちいち説明をする手間がかからないと思う。必要なことだけ、簡単に話そう。
 私の持つ広大な土地と屋敷は、両親が遺したものだ。両親は起業家として成功し、莫大な財産を築きあげた。しかしその若くしての成功の代償なのか、私の両親はまた若くしてその命を落とした。交通事故だった。その事故には私も巻き込まれた。そのとき両親は即死したが、私はかろうじて一命を取り留めた。そして今は両親の遺産で生活している。この莫大な遺産さえあれば、私は一生働かずに済むだろう。そしてその事実は私を救ってくれた。
 私はあの事故のとき死にこそしなかったが大怪我を負ってしまった。そのときの傷痕は今も残っている。そのうち最も酷いのが顔一面を覆うほどの傷痕だ。知人友人が今の私を見ても、おそらく私が誰だかわからないだろう。醜く変貌した人相のおかげで、人は私を避けるようになった。無理もない、まるで化け物の顔なのだから。そして私も人を避けるようになった。
 幸い両親の遺産で屋敷を出ることなく暮らすことができた。極力人と会わず、部屋に籠って生活をした。趣味といえばもっぱら読書だった。近所の大きな書店から毎週何冊かの本を送ってもらっている。
 そしてもうひとつの密かな楽しみは、そこの書店に勤めるひとりの女性との文通だ。外の世界との接点がほとんどない私が、書店にも出向かずに本を選ぶのは難しい。最初は売れている本、流行っている本を適当に送ってもらっていた。しかしそのうちに私に送る本を選んでくれていた女性――私は知らなかったのだが、いつのまにかに彼女が私宛ての本を選ぶ担当になっていたのだ――から手紙が送られてきた。最初はどのような本が好きなのか、どの本を面白いと思ったのかを訊いてきているだけだったのだが、気付けばいろいろなことを、手紙を通じて話すようになっていた。私は手紙を通じてしか彼女のことを知らないが、私は恋をしていた。顔も知らぬ彼女に、恋をしてしまっていた。

 申し訳ない。どうやら関係ない話までしてしまった。これでは朝になっても話は終わらなくなってしまう。そろそろ本題に入るとしようか。
 数日前のことだった。正確な日数は覚えていない。私のどこかが壊れてしまって、もはや日数などかぞえていないからだ。それでも大して話の内容に差し支えるとは思えないから数日前という以上詳しく語ることもないだろう。
 
 とにかく、数日前のことだった。
 
 私は朝目覚めて、まず違和感を覚えた。何だろうか。具体的には何に違和感を覚えていたのかこのときはわからなかった。部屋に新鮮な空気を入れるために窓を開けたときにはもう気にならなくなっていた。私は自ら料理をし、朝食を摂った。このときまたもや違和感が私を襲った。しかし、目覚めたときほどではなく、それもまたすぐに忘れてしまうことになる。そしていつものように読書に耽り、その日が終わるのを待った。
 異変に気付いたのは次の日だった。朝起きてみると、また何かが違う。私の感覚は部屋で起こっている異変を敏感に察知していたのだが、私の意識はそれを問題視しなかった。空気を入れ替えようと窓を開ける。そのとき、ふっと窓を通り抜け出ていった部屋の空気に違和感を覚えた。正確には、異臭を感じた。改めて私は部屋の中に意識を向けた。かすかに、しかし確実に、何かが臭っていた。何だろう? 臭いのもとはわからなかった。すぐに窓から入り込んできた空気が臭いを掻き消してしまったから。
 さらに翌朝を迎えると、今度ははっきりと異臭を感じ取って目が覚めた。何の臭いなのか、私は考えたが思い当たる節はない。しかしそれは、明らかに何かが腐っているような臭いだった。嗅いでいて気分が悪くなったので窓を開けて換気をした。しばらくすると、臭いは消えた。
 その夜に、あることを思い出した。昔飼っていた猫のことだ。その頃はまだ両親も健在で、私はまだ幼かった。幼い私は活発な少年で、今とは違いよく外に出て遊んでいた。広い庭で冒険ごっこをするのが好きで、よく木登りなどをしていた。たまに昇り過ぎて降りられなくなって、泣いてしまうこともあった。懐かしい日々だ。
 ある日、私は庭で猫を見つけた。どこかから迷い込んできたのだろうか、夜の闇のようにまっ黒な猫だった。私は猫にナイトと名付けた。ナイトは好奇心が旺盛な猫だった。私の行動にいちいち興味を示し、よく付いてきた。一緒に冒険ごっこをして遊んだものだ。
 時が経って必然的に無二の親友となった私とナイトだったが、私はナイトのことをまだ両親には話していなかった。もし両親がどこから来たかもしれぬ猫などと遊んでいることを知って、ナイトのことを屋敷から追放したらどうしよう。もしかしたら二度とここの土地を踏めぬように殺してしまうかもしれない。そんな思いが頭の隅にあり、なかなか両親に打ち明けることはできなかった。
 しかしある日のこと、私がナイトと遊んでいるところを両親に見られてしまった。私はどうにかナイトを守ろうと、必死になってナイトの小さな躰を全身で覆った。それを見た両親は私のことを少しも怒ることなく、優しい口調でナイトを屋敷で飼おうと言ってくれた。実は両親はずっと前から私とナイトのことを知っていて、ちゃんと飼おうと言うタイミングを見計らっていたのだった。こうしてナイトは正式に私のペットとなった。
 私とナイトが出会って1年が経った頃だろうか。私はナイトをもう親友とは思っていなく、もはや自分のペットとしてしか見れなくなっていた。そんなことなど知らぬナイトは私に遊ぼうとじゃれついてくる。しかしそんなナイトを、私は内心鬱陶しく思い始めていた。その頃は人間の友達の方が遊んでいて楽しく、遊び疲れて帰ったところにまたナイトと遊ばなければならないのは子供ながらに骨が折れると思った。
 そんな思いがふと溢れ、あるとき遊ぼうと擦り寄ってきたナイトをクローゼットに押し入れた。ニャアニャアと啼く声が聴こえたが、それは無視した。そのうちナイトはおとなしくなり、私の気分はすっかり晴れていた。これでもうナイトに付き合っていやいや遊んでやる必要はない! 清々しい気持ちだった。
 ナイトをクローゼットに閉じ込めてからどれだけ経った頃だろうか。私はすっかりかつての親友のことを忘れ、楽しく日常を過ごしていた。両親が一度ナイトを見かけなくなったことを言ってきたことがあった気がするが、私はどこかに行ってしまったようだと両親に話した。両親は、猫は気まぐれだからと納得したようだった。今思えば猫はおのれの死期を悟ると人前から姿を消す習性を両親は知っていたから納得していたのであろう。そしてそのことを息子に話すには少々酷だとも思ったのかもしれない。
 そうしてナイトのことなどすっかり忘れてしまって久しいある日、部屋に異臭が漂い始めた。最初は何の臭いかなどわからなかったので、あまり気にしないことにしていた。しかしそのうち我慢しきれないほど臭いは強まり、私は臭いのもとを探すことにした。吐き気をもよおすような臭いを辿っていくと、どうやら問題はクローゼットの中にあるらしい。私は意を決してクローゼットの戸を開け、中を見た。
 そこには、死んで腐ったナイトの姿があった。何とも無惨で、子供にはショックの大きい光景だったと思う。
 私は自分のしてしまったことの恐ろしさを知り、泣いた。しかしナイトの死体をこのままクローゼットに置いておくこともできなかった。いずれ臭いはさらに強まり、両親も異変に気付くだろう。その前に何とかしなければ!
 私は庭にナイトの墓を作ってやり、そこに埋めることにした。おそるおそるナイトの死体を両手で持ち上げた。ぐちょりとした感触があった。激しい臭いに吐きそうだったがそれは堪えた。死体には蛆(うじ)がたかり、何匹かが私の手に触れた。おぞましい感触に、思わずナイトを放り投げた。死体がぐちゃりと地面に落下して潰れた。
 涙と洟水を垂れ流し、嗚咽を堪えて再びナイトだったものを持ち上げた。もはや原形を留めていない。よくわからない汁が床に垂れたがどうしようもないので放っておくことにした。私はそっとナイトだったカタマリを持って屋敷の庭に出た。どこか適当な、多少掘り返してもばれなさそうなところを探してそこを手で掘った。爪に土が入り込んだ。
 1時間もして、私は無事にナイトの死体を庭に埋めることができた。もう安心だと思い、その晩はぐっすりと眠れた。

 一気に喋ったからちょっと喉が渇いたな。君もおかわりがいるかい?
 そうそう、ナイトは君によく似ていたよ。人懐こいあたりもそっくりだ。君はきっと友達が多いだろう。違うかい? 私には友達と呼べる人間がいないから羨ましいな。そうだ、よかったら私の友達になってくれないか? こんな顔だし、人と話すのは苦手なんだけど、君は見た目で人を判断するようには思えないからね。きっといい友達になれると思う。よければ、どうか考えておいてくれ。

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DATE: 2008/12/07(日)   CATEGORY: 「怪奇蒐話」
「自動販売機」
今年は、例年にないほどの酷暑だった。
あまりの蒸し暑さにサウナにでも入っている気分になる。

夜になっても太陽の直射から逃れられるだけで、
異常とも言える暑さは相変わらずだった。

おかげで喉が渇く。

僕は住んでいるアパートの向かえにある自動販売機に
飲み物を買いに行くことを決めた。

玄関のドアを開けると熱気が押し寄せてきた。
外に出ると一層暑くて堪(たま)らない。

早く飲み物を買ってアパートの部屋に戻りたい。
僕は小走りで自動販売機の前まで走った。

百円玉を2枚入れて、ボタンを押した。
ガタンという音とともに缶が出てくる。

僕は取り出し口に手を伸ばし缶を掴んだ。
その瞬間、缶を掴んだ手を何かに引っ張られた。

僕は驚き咄嗟(とっさ)に引っ張られた右手を見た。
その手首を見て僕は思わず叫んでしまった。

僕の…

僕の手首に…


人の手が掴まっていたのだ!!


取り出し口の中から手が伸びていて、僕の手首を掴んでいたのだ。
僕はどうにか逃げようと手を引いたが、手首を掴んでいる手は離れなかった。

何度も何度も自分の腕を引っ張ったけれど、
取り出し口から伸びたその手は僕を放さない。

僕は大声で助けを呼んだ。
しかしその声は誰にも届かなかったようだった。

力強く捕まれていて次第に爪がめり込んできた。
自分の腕から血が滲(にじ)むのを見て大量に汗が吹き出た。

このまま僕はどうなってしまうのだろう。

僕は本当に強い力で引っ張られ、取り出し口へと近付いていった。
いくら踏ん張ってもズルズルと引っ張られていっている。

僕地面のアスファルトの微(かす)かな突起に
左手の指を引っ掛けて踏ん張った。

指からは血が出てきた。
その血で今にも指は滑りそうだった。






誰か…助けてくれ…。








そして、僕は諦めた。
抵抗を諦(あきら)め、脱力した。

その瞬間、ずっと右手に握られていた飲み物の缶が手から離れた。
自分自身、缶を握っていたことも気付かなかった。

すると、僕の手首に纏(まと)わり付いて離れなかった手が離れた。
手首にははっきりと手の跡(あと)が残っていた。それほど強く握られていたようだ。

爪は深くめり込んだようで血が垂れていた。
僕はお釣りを取ることなくアパートの部屋に戻っていった。


***


それからは自動販売機で何かを買ったことはない。

あの手は何だったのかは未(いまだ)だに判らない。
原因を解明しようなんてことは思わないし、信じてもらえないと思うから誰にも話すつもりもない。



ただ、毎年夏が来るとあの手を思い出してしまうのは一生続くだろうと思う。
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