みやび萬紅堂。
いらっしゃいませ。コメントはお気軽に。
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【完全版】MUKURO・煉獄篇‐4 (邂逅)
 見知らぬ男が包丁を振り上げたとき、亮太郎は死を覚悟して目を瞑った。
 怖かった。不思議なことだが、このときばかりはあの化け物たちより目の前の男の方が断然に怖いと思った。たったひとりの人間が怖くて仕方ない。化け物相手に生き延びてきたというのに、ここにきて最も死を意識したというのは実に不可思議なことだと無意識に思っていた。
 カラン。何かの音が耳に届いた。亮太郎は恐るおそる目を開けてみると、もはや男の手には包丁はなく、見たことのない男に取り押さえられている姿がそこにはあった。抵抗しようと足掻く男を軽々抑え込み、包丁男は腕を背中の方へと捻り上げられ痛みに悲鳴をあげた。
「大丈夫か?」
 助けてくれた男の声に、亮太郎が小さく「うん」と答える。
「ちょっと待ってろ」
 男は包丁男を押さえつつ自分のベルトを外して、包丁男の腕をベルトで拘束する。「おとなしくしてろ」
「君、ひとり?」包丁男を地面に放ったまま、男が立ち上がり尋ねた。「うん」
「そっか。家は?」
 家のことは思い出したくなかった。あの化け物のことを思い出してしまう。それだけで全身に鳥肌が立ちそうだった。
「――俺の名前は野坂 永一。君の名前は?」
 なかなか返事をしない亮太郎に対して、男は何かあることを察して自己紹介をし、亮太郎にもそれを求めた。
「葛原、亮太郎……」
「亮太郎君か。とりあえず安全なところに行けるまで一緒に居ようか」
 その安全なところはどこなのか、そもそも安全なところなどあるのか――と心中で野坂は思いつつ。
「俺をなんとかしろォオオ!!」
 包丁男は唾を吐き散らしながら喚き、堪らないといった感じで野坂は男を無理やり立たせた。「行け」
「……は?」
「行けよ。どっか好きなところに」
 本来なら警察に突き出してやりたいところなのだが、今この異常な状況で警察が正しく機能しているとは思えない。野坂は仕方なく、男を自由にする道を選んだ。
「じゃあこのベルトを外せよ!」
「それは自分でなんとかしろ。それを外した途端にまた襲いかかられちゃ堪らないからな」
 そうして男はギャアギャアと喚き散らしながら、最後に捨て台詞のようなものを吐いて、両腕をベルトで拘束されながら走り去っていった。
残ったのは血の付いた包丁と女性の死体。
 それに対してどうしてやることもできないので、せめてもと思い野坂は持っていたハンカチを女性の顔にかけてやった。それしか今の彼に出来ることはなく、そのことが彼には悔しい。
「行こう」
 野坂が亮太郎に手を差し伸べる。
 亮太郎は、恐るおそるその手を掴んだ。
 それでも、野坂の手は温かく亮太郎のことを受け入れてくれた。
 二人は行くあてもわからないまま歩き出した。

 ***

 彼がまず思ったのは“法律は死んだ”ということだった。
 街には見るも奇怪な化け物が横行し、人々が残虐無惨にも殺されていく。それを止めるような力は人間にはなく、秩序(ルール)はもはや喪失(うしな)われたも同然であった。
 化け物が通ったあとの破壊された場所で、彼は見知った顔を見つけた。中肉中背のその男は、化け物に襲われたものの命は助かったのか、傷を負いながらも地面を這っていた。
 いい気味だ、と彼は思った。
 男は彼の存在に気付き、助けを求めた。彼はゆっくりと近付き、男を見下ろした。
彼には男を助けようという気は毛頭ない。――今度は俺が見下してやる。
 男は脚を怪我しているようだったが、それ以外のどこかにも傷を負っているのだろう。それを想像するのは難しくないほど、血に塗(まみ)れている。
 ――どうせ放っておいても死ぬだろうが。
 彼は足元に落ちていた瓦礫を拾い、にやりと嗤った。
 それを見て、男は戦慄した。
 何かを言おうとしたのだろう、男が大きく口を開き声を発しようとしたその瞬間に、瓦礫が男の頭に落ちた。
 確かな感触を彼の手にあった。今の一撃が確実に男を殺したであろうことは確かめる必要もないほどに明白だ。
 男の頭蓋骨は陥没して、血と脳漿が持ち上げた瓦礫から滴った。
 人を殺した、ということに対する感覚はあまりにも薄く、彼には無感動であった。意外にもあっけない。罪の意識もなければ、殺してやったという満足の念もない。それは、そこらの虫けらを踏み潰すのと変わらぬ行為に思えた。 

 ***

 今村 冴子は逃げていた。突然現れた化け物の群れにより世の秩序が乱れ、生き残りの人間の中にどうせ死ぬならと自らの欲望を満たそうとする輩が多く現れ始め、冴子を追っている若い三人組もそういう人間たちだった。
 若い男の淫らな欲望の矛先は、偶然にも冴子に向いた。たまたま視界に入ったただそれだけの理由。このときばかりは運が悪く、冴子の器量の良い容姿が仇(あだ)となった。男の欲望の捌け口にはもってこいの女性だ。もちろん獲物を探していた男たちはそんな冴子を見て、すぐさま狩り(ハント)を始めた。ニヤニヤと駆け寄る男たち。その表情(かお)には明らかに欲情し、女の躰を求める肉欲の奴隷のものであった。
 それを察した冴子は一瞬の判断のあと、一目散に走り出した。
 走るにはヒールが邪魔だ。彼女は途中でハイヒールを脱ぎ捨て、裸足で走った。小石が足の裏に食い込むのも気にしない。恐怖が痛みを忘れさせていた。
 そして、角を曲がったところで視界に入った小さな本屋。あるいは古書店だろうか。古ぼけた看板には「萬紅堂」とある。後方に男たちの姿が見えないことを確認して冴子は店の扉を開け、中に飛び込んだ。
 店内は静まり返っている。
薄暗く、間隔の狭い本棚の間を縫うように進んだ。本棚には「自由」「螺旋の棘」「Erus Menel」「ホルンの契約」など、彼女の知らないタイトルが並んでいたが、そもそも冴子は本をあまり読まない。
 ――そこで初めて人の気配に気付き、冴子の全身に緊張が奔った。
 その男は無造作に伸ばした黒髪の間から、鋭い双眸を冴子に向けている。「あんた、誰?」
「あ……え……」
 そのとき冴子の心には物凄い勢いで恐怖が拡がっていた。先ほどの男たちのことが思い出される。目の前にいる男も、あの男たちと同類だったらどうしよう?
「まぁ、誰でもいいけど」
 男は興味なさげに手元の本に視線を落とす。どうやら漫画のようだ。表紙には「shrieker」とあった。
「どうでもいいけどさ、血ィ出てるぜ。足」
 男の言葉で冴子の痛覚はやっと正しく機能した。不思議なことに、一度意識してしまうとひどく足が痛んだ。滲んだ血が、かすれた足跡を残していた。
「……あ、あなたは、何をしているの?」
「見りゃわかるだろ。読書」
 男が数冊の本を放り投げた。それが冴子の足元に落ちる。本のタイトルは「爆音デイズ」「水辺の女」「魔人狩り」などだ。冴子には意味がわからない。「……なに?」
「読み終わったやつ。どれも大したことない同じ作家のやつだけど」男は持っていた漫画を横に置いた。「それで、どうしてここに?」
 そのとき、店の扉が乱暴に開けられて若い男の三人組が侵入してきた。
 あまりの恐怖に冴子は声も出ない。ガクガクと脚が震えた。
 男はそれまで腰掛けていたレジカウンターから降りて、床に落ちていた本を拾い、侵入してきた三人組の内のひとりの顔に本を当てた。本を当てられた男は一瞬ぽかんとしていたが、次の瞬間には床を舐めていた。男が本越しに思いっきり殴ったのだ。
 男の動きはスムーズで一切の無駄がなかった。そのままもう一人の腹部も殴った。殴られた男は内臓が押し潰されるような痛みに立っていられず、その場にしゃがみ込んだ。
 残る一人は完全に怯(ひる)んでいた。仲間の二人があっという間に打ちのめされてしまったのだ。――だが、彼の予想とは裏腹に男は店の奥のカウンターに戻っていく。安堵の気持ちがフッと心に拡がった。
 しかし、それも少しの間だけであった。
 男がレジカウンターの向こう側から取り出したのは、斧だ。それを片手で持って、刃の方を引きずりながら残る一人に近付いていく。
「死にたくなかったら、どっか行け」
 言われるより先に、男は店の外に逃げていた。残された二人も、慌てふためきながら逃げようとする。腹部を殴られた男は半ば這いながらの逃走だ。
「……ありがとう」
 冴子は素直に男に礼を言った。
「見るからに不快な連中が入ってきたから追い払っただけだ」
「その、あなた名前は?」
「自分も名乗らねえのに、人に名前を訊くのかあんた」
「……ごめんなさい。私は今村冴子っていうの」
 男は持っていた斧を本棚に立てかけてから、言った。
「黒川 宗二郎」
 それが男の名前だった。

 
 逃げた三人組は店を飛び出すと巨大な白い塊を目撃した。人ほどある大きさの白玉のようにも見えた。
「なんだ、これ……?」
 男のひとりが近付いてみると巨大な白い塊は、静かに動いていた。まるで呼吸をしているかのように、わずかに全体が上下している。
「おい、近付かねえ方がいいんじゃねえか?」
 仲間の男がそう言ったとき、その塊は蠕動(ぜんどう)しながら動き出し、近付いていた男に襲い掛かった。男は白い塊の下敷きになって、身動きが出来ない。塊は柔らかく、弾力があり、ゆっくりと男のことを呑み込んでゆく。
「逃げよう!」
 残る二人はすぐさまそう決めて、走り出そうとする。
 ――が、気付けばあたりには何十という白い塊が群がっており、二人は完全に包囲されていた。
 白い塊はゆっくりと這いながら男たちに近付いていく。男のひとりが悲鳴を上げた。


 冴子と宗二郎は男の絶叫を聞いて、何事かと店の外に目を向けた。
 店の前には何十という巨大な白い塊が並んでいて、そのうちのひとつが男に乗りかかり、全体で包み込むように男を呑み込んでいく様が見えた。
 蠕動し、這って進む白い塊のその姿に宗二郎はまるで巨大な蛆虫のようだと思った。
 宗二郎は再び斧を手に取り、冴子に見遣って言った。「俺はここを出るけど、あんたはどうする?」
 一緒に行くというのが冴子の答えだった。独りでいるにはあまりにも心細い。
「その足で走れるか?」
「たぶん、大丈夫」
「そうか」
 店のすぐ前にいた蛆虫にも似た白い塊の表面がボコボコと変化を始めた。次第に形がはっきりしてきて、塊から顔のようなものが出てきていることに冴子は気が付いた。
 そして、腕のようなものも白い表皮を突き抜けるかのように現れ始める。
「なんだ、ありゃ……」
 あまりの不気味さに、宗二郎は息を呑んだ。が、意を決して店の外に飛び出る。そして店の前にいた変化中の塊に斧を振り下ろした。もう一度、振り下ろす。斧が白い塊を切り裂いて、それは二つに分かれた。
 しかし変化は止まらない。
 白い塊はついに人の形になった。白く、つるりとした表皮を除けば形は人間である。分断されたもう片方も同じように人の形に変化した。
 白い塊だったもの――ヒューマノイド・イミテーターは這う格好で宗二郎の方を向いた(といっても顔はのっぺらぼうのようだったので、目は存在していない)。
 宗二郎の斧がイミテーターの頭を吹き飛ばす。
「走るぞ!」
 そう言って、宗二郎は駆け出した。冴子もそれに追従する。
 もう片方のイミテーターはその場にいた男――宗二郎に腹を殴られた男だ――に飛び掛り、両の腕で男の首を捻る。骨が折れる音がして、男はぐったりと身を崩した。

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【完全版】MUKURO・煉獄篇‐3 (急襲)
 昼休み中に突然校舎を襲った揺れはそれほど大きくないまでも、しばらくの間続いた。担任教師の指示で、机の下にもぐった雄大は隣の机の下で怯えた表情の千紘に「大丈夫だって」と声をかけてやった。しかし千紘はこくんと頷くだけで、相変らず怯えているように見えた。
 地震が収まって、スピーカーから校内放送が聞こえてきた。雄大は机の下から這い出し、千紘に手を差し伸べる。「ほら、大丈夫だったろ?」
 担任教師が全員の無事を確認するため皆に呼びかける声がした。
 ――そのときだった。校内の空気が一斉に震えるほどの悲鳴が響いたのは。
 スピーカーから音割れしながら発せられる叫びに、一同が唖然として、誰もが凍りついて身動きが出来なくなっていた。何が起こったのかわからない。全員がそういう表情(かお)を浮かべていた。
「みんな、とりあえず落ち着いて!」
 担任教師が冷静を促そうとするが、誰より彼女が事態を把握できずに混乱しているように見える。
「雄大……、一体なにがどうなってるの?」
 心細そうに、千紘が呟く。
「おれにもわからねーよ……」
 そして、再び悲鳴が響(こだま)した。しかし今度はもっと近くで、だ。
 すると隣の教室から阿鼻叫喚の悲鳴が聞こえてきて、教室内が騒がしくなった。さすがの雄大も怖気づく。千紘は無意識に雄大の手を強く握り締めていた。
 それは突然だった。教室のドアは吹き飛び、ぬっと現れる巨大な影。人の何倍もあろうサイズのカマキリだ。あまりに非現実な光景に、誰もが反応できなかった。そして前脚(カマ)の一薙ぎ。雄大と千紘の視界が赤く染まった。教室中が鮮やかな赤に染まった。
 噴き荒れる鮮血。首を喪失(うしな)い、胴より上を喪失い、夥(おびただ)しい血を溢れさせている躰。かつて人だったモノ。その肉塊がそこにはあった。たった一薙ぎによって、いくつもの命があっさりと絶たれ、教室は地獄絵図の様相と化す。
 千紘の悲鳴が教室に響き渡った。

 ***

 巨大なカマキリが教室に侵入によって世界が暗転、雄大のかつての日常は崩壊した。そして現れたのは阿鼻叫喚の地獄絵図。血に塗れ、肉塊が積まれた教室だった。
 千紘が悲鳴をあげ、その場にしゃがみ込むのを見て、雄大はハッと正気を取り戻す。体験したことのない恐怖が躰に貼りついて離れないが、それでもこの場を逃げなければ!という気持ちがどこからかふっと湧いてきたのだ。
雄大は千紘の腕を掴んで走り出した。
「痛い」という言葉が思わず口から漏れたが、千紘もこの教室から逃げなければならないことはわかっていた。だから、強気に行動を起こした雄大について走る。涙が頬を伝ったが、自分で気付かないふりをした。今は泣いている場合ではない。悲しみに暮れている場合でも、恐怖に慄(おのの)いている場合でもないのだ。そう自分に言い聞かせて、走った。大人でも恐怖に立ち竦(すく)むであろう場面を二人は強く生きようと全身全霊で駆け出した。
 巨大カマキリが現れたのとは別のドアから教室を抜け、廊下を突き進む。むっと押し寄せる血臭に二人は耐えた。廊下にも、多くの死体が、その肉片が散らばっていた。
 階段がもうすぐというときに、目の前の教室から壁をぶちやぶってまたも巨大な化け物が現れた。見た目は蜘蛛だ。だが、表面は甲殻類のそれに似ている。蟹のように硬く、刺々しい表皮。色は黒い。それでも八つの眼と独特の牙がある口元は蜘蛛そっくりだった。
 巨体を持つその蜘蛛――ブラックシェルスパイダーはその大きすぎる躰ゆえ、身動きが取りづらそうである。硬い表皮で壁を削りながら動いていた。そのことに気付いた雄大は、もしかすれば潜(くぐ)り抜けれるのでは? という気持ちが湧いた。
 ブラックシェルスパイダーの脚は長く、床と腹部の間に人が通り抜けられる程度には空間ができている。もし失敗すれば待つのはおそらく死だが、後方からはあのカマキリがいつ追ってくるかもわからない。「……千紘、行けるか?」
「――え?」
「あの化け物の下を潜って向こう側に行けば、あとは階段を下りれば逃げられると思う。あの化け物の大きさだときっとすぐには追って来れない。逃げるとしたら、こいつを潜り抜けて逃げるしかないって!」
「……わたし、できないよ」雄大が大声をあげた。「できなくったってやらなきゃ!」
「でも、でも……」
 千紘の両目からぶわっと涙が溢れ、嗚咽を漏らしながら頬を濡らした。
 ブラックシェルスパイダーは、ゆっくりだが二人の方へと迫ってきている。
「千紘!! 今行かなくちゃおれたち死ぬんだぞ!!」
 ポタッ。そのとき床に落ちた一滴の涙は千紘のものではなく、雄大のものだった。
「おれだって怖えよ。でも、二人とも行かなきゃ死んじゃうんだぞ……」
雄大の手にギュッと締め付けられる感覚があった。「ごめん」
「……行こう」
 二人はお互いに頷いて、同時に走り出した。ブラックシェルスパイダーの脚が二人に襲い掛かるが、それは間一髪のところで逸れ、二人は走り続けた。ブラックシェルスパイダーの口から紫色の液体が放たれ、壁や床にかかる。ジュッという音と異臭。廊下の一部が溶けていた。
だが、二人は走り続ける。何も見ない。ただ走ることだけに専念する。
 ブラックシェルスパイダーを潜り抜けて、二人は階段を下り始めた。ここは三階だ。いち早く一階に辿り着きたいという思いが二人を焦らせる。
「あっ」
 階段に躓き、雄大が全身を打ちつけながら転げ落ちる。慌てて千紘が駆け寄った。
「だっ 大丈夫?」
「……うん、なんとか」
 上の階から破砕音が聴こえてくる。おそらくブラックシェルスパイダーが校舎の壁や天井を壊しながら追ってきているのだろう。
「早く、立って」
「いてて……」
 苦痛に顔を歪ませながら雄大は立ち上がり、残る階段を下り始める。そっと千紘は肩を貸してあげた。
「おい、大丈夫か!」
 二人に声かけてきたのは、教師の斎藤だった。「斎藤先生!」
「怪我はないか?」
「あの、雄大君が……」
「どうした? 見せてみろ」
 そう言って斎藤が雄大に駆け寄り、手を伸ばしてきた――そのとき、斎藤はトンと軽い衝撃を躰に覚えた。彼は一瞬なにが起きたのかわからなかった。だが、千紘には明瞭(はっきり)と見えていた――斎藤の胸を貫くそれが。
 斎藤が自分の胸を見下ろすと、何かが生えている。自分のものではない。これはなんだ、と彼は思う。そして血が溢れていることに気付き、次の瞬間には視界が揺らめいた。全身に力が入らなくなり、体重を支えきれなくなった両脚からカクンと崩れ落ち床に倒れる。
 斎藤の胸を突き刺したのは、またもや蟲の化け物だ。
 それはムカデのように長い躰をしていて、数え切れないほどの脚を持っていた。他の化け物同様にサイズは規格外に大きい。そして頭と尾の区別がつかなかった。どちらも鋭い針のような形になっている。ニードルヘッズバグは斎藤の躰から針の頭――あるいは尾だが――を引き抜いて、ゾゾゾと幾本もの脚を蠢かせた。
「雄大! 逃げなきゃ!」
 千紘が雄大を支えて、走ることを促した。雄大もそれに応えるように足を踏み出すが躰の節々が痛む。「――くっ」
 トンッとニードルヘッズバグの鋭利な針が倒れていた斎藤の頭を貫いた。斎藤の頭に大きな穴が簡単に穿たれ、ぴくりとも動かなくなった。人ひとりがいとも容易く絶命する現実する非情さに、千紘の涙腺がまた反応する。――が、彼女は泣かない。泣いている暇はない。斎藤の次に狙われるのは自分たちなのだから。
 ニードルヘッズバグが俊敏な動きで二人に襲いかかろうとしたそのとき、突然廊下の天井が崩れ落ち、その瓦礫がニードルヘッズバグの上に降りかかった。思わぬ展開に千紘と雄大は驚いた。瓦礫の破片が二人にも飛んできたが、幸い怪我という怪我には至っていない。だが、それ以上に問題だったのは瓦礫とともに落ちてきた巨大な蟹蜘蛛――ブラックシェルスパイダーの姿である。
 落ちてきた衝撃でかブラックシェルスパイダーはまだ動き出してはいない。千紘と雄大は再び走り出した。行く先にあるのは、学校の体育館だった。

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【完全版】MUKURO・煉獄篇‐2 (日常の崩壊)
 血が滲んで、少しだけ沁みた。どこまでも走り続けた亮太郎は体力が尽きて、ついには躓き、アスファルトの上に転がっていた。見上げる空は青く、清々しくて、さっき化け物を見たことが嘘のようにそこには「いつもの空」があった。まるで現実感がない空だ。本当に現実感がないのはさっきの化け物の方のはずだというのに。
 亮太郎はゆっくりと起き上がり、ここがどこなのかとあたりを見回した。知っているようで、知らない場所だ。何度か通ったことがあるのかもしれないが、その程度のおぼろげな記憶しかなく、実際どこなのかわからない場所。
 母親は無事なのだろうかという気持ちとこれから自分はどうすればいいのだろうという気持ちで、亮太郎は涙が溢れた。洟をすすり、とにかく歩き続ける。だれか、だれかいませんか…
 全くといっていいほど人の気配はなかった。
 自分の足音がやけに耳に障る。呼吸もうるさくて、息を潜めた。静けさが落ち着かない。
 そこにヒュッと風を切るような音が聴こえた。ヒュッ、ヒュゥゥゥ。
 気付けば目の前に魚が浮いていた。何の魚かはわからない。ズブッと魚の額から角のようなものが突き出す。次の瞬間には頭部が醜く膨れ四方八方から口が生えてきた。もはや最初の姿形を留めていない。異形の魚を前に、亮太郎は再び走った。ヒュウウウ――風を切る音で、魚が追ってきているのがわかる。亮太郎は走った。できることはそれしかなかった。走って走って走り続け、逃げ続けるしか生き延びる方法はなかった。
 ふと前方に何かの姿が見えてきた。ぴょこぴょこ、と歩くそれは一見すると人のようでもあったが、裸で肌は青白く、口はとんがった耳のあたりまで裂けている。眼はぎょろりと大きかった。背はそれほど大きくなく、小鬼のような印象を受ける。複数のそれは亮太郎の方へぴょこぴょこと独特の動きで近付いてきていた。
 亮太郎は振り返り、後方を確認した。あの異形の魚の姿は消えていた。前方からは小鬼が近付いてきている。少し迷って、亮太郎はすぐ横にあった雑居ビルに逃げ込んだ。
 何かのオフィスらしいところに入るとデスクの下にもぐり込んで隠れ、息をひそめた。耳を澄ますと足音が聴こえる。それはゆっくりと近付いてきていた。
 口元を押さえていた手が震える。
 気配がすぐ近くまで迫っていた。
 デスクの上に何かが乗った音。
 亮太郎は悲鳴をあげたかった。大声で泣いてしまいたかった。それでも懸命に堪えようとする。
 にゅっ、と青白い顔が亮太郎の目の前に現れた。不気味に裂けた口が笑っているように見える。
 亮太郎はデスク下から飛び出して、駆けた。だが、小鬼の腕が亮太郎を掴まえる。それを精一杯の力で振り解いて、再び駆け出した。小鬼たちも亮太郎を追いかけて走り出す。
 小鬼たちが笑う。
 まるで獲物を追うのを愉しんでいるかのように。
 そこに一台の自動車(くるま)が突っ込んできた。

 ***

 自動車に衝突され、あるいはタイヤに巻き込まれ、数匹の小鬼がただの肉塊に変わった。突然現れた自動車の運転席を恐るおそる覗き見てみるとそこには首のない人間の体がハンドルに寄りかかっていて、亮太郎は思わず悲鳴を上げて逃げ出した。
 もう走る体力も気力も残ってはいない。ただ恐怖心だけが亮太郎を走らせた。
 前方に、男の姿が見える。生きている人間だ。近付こうとして、亮太郎はふと足を止めた。男の足元に誰かが倒れている。女性のようだった。そして男の手には刃物。刃渡り20センチはあろうかという包丁だ。
 包丁は血に塗れていた。
 男が他人の気配に気付き、亮太郎の方を見遣る。
 尋常ではない貌(かお)だった。眼は血走り、肌は蒼白。人のようで、人ではない。亮太郎の目には先ほどの小鬼たちと変わらなく映った。思わず後ずさりする。
 亮太郎には聞こえないほどの小声で、男はぶつぶつと何かを言っていた。そしてゆっくりと亮太郎の方へと歩み寄り始めた。
 あまりの恐怖に、亮太郎の脚は動かない。それどころが震えている。震えが止まらない。
 男の持つ包丁の刃先から血が滴り、点々と地面を赤く染めた。
 ゆっくり、ゆっくりと男は歩み寄る。
 ゆらゆらと揺れるような歩き方だった。
 目の焦点は合っているようにも、合っていないようにも見えた。その目に亮太郎が見たのは「無」だ。何もない。空っぽの目。あるいはそれは「絶望」なのかもしれない。男の中で何かが壊れてしまったのだ。そう、この男は壊れている。亮太郎は恐怖した。今までこのような人間を知らなかった。だから怖かった。あの化け物と同じく、未知の存在だった。
 ついに男は亮太郎の前まで来ると、じっくりと亮太郎を見た。品定めするように。上から下へ、下から上へ。男は見た。だが、そこに一切の感情は感じられない。そこにあるから見ている。ただそれだけのようでもあった。
 男は当然のように包丁を振り上げてそして――

 ***

 野坂 大吾が意識を取り戻したのは愛車の運転席だった。作動したエアバッグが野坂の目の前にあった。(何がどうなったんだ……)と野坂は思い、そして徐々に思い出し始めた。そうだ、自分は事故に遭ったんだ。確か前の車が急にブレーキをかけてそれで――
 考えると頭がずきりと痛んだ。触れてみると額から血が出ていて指先を赤く濡らした。
 ドアを開けて赤のエクストレイルを降り、野坂はよろめきつつも事故を起こした前の車に近付いた。運転席を覗くと誰もいない。ドアは開きっ放しだった。
(どういうことだろう?)
 そこで野坂は運転席のドアに何かが付着していることに気付き、近寄ってよく見てみる。ぬるりとした透明な粘液だ。それに生臭い。これは何なのか? その答えは出ぬまま野坂はあたりを見回した。誰の姿もない。街は静寂に包まれ、まるで街そのものが喪に服しているかのようだった。
 どうしようもないので彼はポケットから携帯電話を取り出し、110とプッシュして通話ボタンを押したが、電話が通じない。110が通話中で繋がらないということは普通ならば考えられず、野坂は何かがおかしいと思い始めた。
 仕方がなく愛車のエクストレイルに戻り、破損状況を確認したが、フロント部分が完全に潰れてしまっている。これは直せるだろうか。あるいは直すより新しい車を買った方が安くつくかもしれないな、などと思った。
「これで助かったのは奇跡かもな」
 その言葉は静かに響き、気分はまるで世界で最後の生き残りだ。確かそういう映画があったような気もするな、と野坂は思いながら愛車のシートに腰をおろした。
(さて、これからどうするべきか)
 警察に繋がらなければ、やはり職場に連絡を入れておくべきだろう。野坂は再び携帯電話を取り出して、登録された職場の番号を呼び出す。彼は自衛官だった。父も自衛官で、自然と自分も同じ道を選んで高校を卒業と同時に自衛隊に入隊した。野坂にとって父は憧れだった。厳しいが、優しい父親だった。どんなことも行動で示す人。父を慕う人も多く、家にはよく父の同僚が遊びにきていたことを思い出す。その父も3年前に癌で亡くなった。日頃から健康には気を遣っていた父だが、発覚したときにはもはや手の施しようがないほど癌は体を蝕んでいた。
「人はいずれ死ぬ」そう父は言った。「だが、死んでも残るものもある。たとえば、お前がそうだ。――お前は俺が生きた証だよ。俺がいたからお前がいる。そして、お前もいつか自分の子を持つだろう。そうして人は生きた証を積み重ねていくんだ。誰もが生命(いのち)という歴史を背負って生きているんだ。そしてお前はそれを守れ。国のためではなく、人のために守らなきゃならん。こういう時代だ。いつそういうときがきてもおかしくはない。そのときはお前が体を張るんだぞ。自分の生きた証を残すためにも、な」
 父は自衛官という職業に誇りを持った人間だった。自衛官の誰もがそういうわけではないが、自分は父のような自衛官になりたいと純粋に思った。今はまだ妻も子もいないが、いずれ家庭を持つ日が来るかもしれない。そのときは、父の言葉を我が子に伝えたいと思っていた。自衛官になるかはわからないが、それでも伝えておきたかった。それが、父が生きていた証なのだろうと野坂は思っているからだ。
 呼び出しのコール音が聞こえ始めたときに、野坂は異様な気配を感じた。最初はそれが何なのかわからなかったが、すぐに嗅覚が反応した。あたりが生臭い。野坂は愛車から飛び降りて、あたりを見回した。そして、信じられないものを目にする。
 巨大な塊。
 自分の数倍はある大きさのそれは、ブヨブヨとゲル状で出来ていて姿形は巨大で、醜悪なタコのようであった。丸い体に、うねうねとした触手のような脚が幾本も生えている。半透明の紫がかったボディの中心にはぎょろりとした目玉がひとつ、獲物を探すように蠢いていた。
 野坂は戦慄した。今まで見たこともないモノが目の前にいる。咄嗟に、彼の本能が警鐘を鳴らした。
 そして、醜い化け物と野坂の目が不意に合った。
 野坂は、化け物と目が合った次の瞬間にはすでに走り出していた。いつもの訓練で、走ることには慣れている。全力で走れば逃げ切れると本能的に感じていた。それに相手は見るからに動きが鈍そうである。走り続ければ振り切れる! それは半ば確信だった。
 どれだけ走り続けただろうか。さすがの野坂も息があがり、全身からは汗が噴き出ていた。額から流れる汗が目に入って沁みた。後方を確認すると何の影もない。どうやら逃げ切ることができたようだった。
 無性に喉が渇いていた。コンビニが見えたので店に入るとそこにも誰の姿もなく、やや困惑しながらも冷蔵棚からスポーツドリンクを取り出して半分ほど一気に喉に通す。
(一体、何がどうなっているっていうんだ……)
 ザザ、ザザザ……。何か物音を野坂の聴覚が捉えた。全身に緊張が奔る。警戒しながら、野坂はゆっくりとコンビニを出た。ザザザ、ザザ……。(まさかあの化け物なのか?)
 野坂がそれを見たとき、最初は人かと思った。だが、すぐにそれは違うと気付いた。地を這うそれは腕が4本もあり、哺乳類というよりは昆虫を連想させる。そして顔。それの顔はつるりとしていて何もない。まさにのっぺらぼうだった。マネキンの顔とも思える。
 顔無しの化け物――ノーフェイスヘッドが素早い動きで接近してきた。野坂は反射的に蹴りを繰り出す。野坂の蹴りはノーフェイスヘッドの頭に当たり、ノーフェイスヘッドはそのまま吹き飛ばされて壁にぶつかった。
 ――倒せない敵ではない。
 そう確信した。見た目は化け物だが、抵抗すれば勝つ見込みはある。野坂の本能がそう告げている。
 起き上がろうとするノーフェイスヘッドに続けざまの蹴りを放った。相手が這っているため、有効なのはやはり蹴りだ。わざわざ姿勢を低くしてまで攻撃する必要はない。鋭い蹴りがノーフェイスヘッドの頭を何度も襲う。
そのうち化け物はぐったりとしたまま動かなくなった。
 息を切らしながら、野坂は目の前で倒れている化け物を見下ろした。これは何なのか。あのゲル状の化け物といい、世界は地獄と化したのか。まるで魔界に呑み込まれてしまったかのようではないか。
 ザザザ――
 また先ほどと似た音が野坂の耳に届いた。
 建物の壁に新たなノーフェイスヘッドが2匹。そしてアスファルトの地面にも1匹這っていた。
 ――いくらなんでもこの数は相手にできない。
 野坂は再び走った。行く先はわからない。そして、この先に何が待つのかもわからなかった……

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【完全版】MUKURO・煉獄篇‐1 (終わりのはじまり)
 朝の通勤ラッシュに揉まれながら猪瀬 諒は吊り革を掴み、高速で移動する電車に揺られていた。目の前の窓から見える景色は流れるように変わっていく。
 連日の疲れが取れておらず、猪瀬は立ったままでも眠ってしまいたかった。だが、自分が手掛けている仕事にとって、今はとても重要な時期だった。当然のように帰りも遅くなり、しかし出社時間は変わらない。疲れだけが溜まっていくような日々である。
 快晴の、澄み渡った空で太陽が自由気ままにといった様子で地上を照りつけていた。外に比べればまだましだが、車内も相当に暑い。窓ガラスを通過する陽光。密集した人間の体温。無数の呼吸が、二酸化炭素の密度を増やしている。
 シャツには汗が滲み、滴(しずく)ツーと背に一筋流れていく。
 景色はまだ流れている。目的駅まではまだしばらくあった。
 不意に、猪瀬の感覚がわずかな震動を捉えた。躰を包み込むような違和感。それは電車の揺れとは違っていた。瞬間、大きな力が車両を揺する。今度はより明瞭(はっきり)、誰もが揺れに気付いた。――地震だ。
 大きな揺れに耐えきれず、思わず倒れそうになる人たち。しかしぎゅうぎゅうに詰められた車内ではそれも出来ない。場はかなりの押し合いになった。
 アナウンスが流れ、電車は一時停止した。
 激震が車両を襲う。――吊り革を掴む、猪瀬の両手に力が籠もった。
 その地震は数分続き、そののち突如として止んだ。
 猪瀬は瞑っていた目を開けて、車窓から周りの様子を窺った。地震の強さの割には、目に見えるような被害はない。彼は安堵の息を吐きながら、全身の力が抜けていくのを感じた。
車内では何人かが押し倒されて、ところによっては積み重なるようになっている。どこからか呻き声が聞こえた。
 ふと、遠くに見える大きなタワーの存在に猪瀬は気付き、とある疑問が浮かび上がる。あんなところにあのような巨大なタワーがあっただろうか? その高さは天に届くかのようで、頂上が見えない。
 急に夜が来たかのように、一転して外は闇に包まれた。闇というよりも、黒に。車窓から先にあるのは、ただの漆黒。まるで世界が黒に塗りつぶされたかのような感覚に猪瀬は陥らされた。
 何が起きたのかわからず、猪瀬は混乱した。車内でもいくつものどよめきが生まれているのがわかる。
「一体、何が……」
 思わず漏れた呟きの次の瞬間、猪瀬の目の前に恐ろしいものが現れた。
 黒い闇の中に、一つの大きな眼が浮かんでいた。それが窓ガラスに張り付いている。彼は思わずたじろいだ。
 ギョロリとしたその眼は車内を物色するかのようにせわしなく動いた。
 車内のどこかで悲鳴が響(こだま)した。

 ***

 昼頃になって、葛原 亮太郎はベッドを脱け出してキッチンに向かった。教えられていた通りに、母親が用意してくれていたお粥を温めて亮太郎はあまりない食欲でそれを口に運ぶ。亮太郎の通う小学校では風邪が流行っていたが、亮太郎もそれに罹(かか)ってしまったようで、今日は学校を休んでいた。
 スプーンでお粥を掬(すく)い、口の中に放る。亮太郎はあまりお粥が好きではなかったが、母親に少しでもいいから食べておきなさいね、と言われていて仕方なくいま食べている。
 カタカタカタ、と音がした。なんの音だろう?と亮太郎は思ったが、見てみると家具が小刻みに揺れている。地震だ。亮太郎はどうしていいかわからず、とりあえずスプーンを置いてテーブルの下にもぐってみた。
 それほど大きくはないが、揺れは続いている。
 急に心細くなった。小さなものでも、長く続く地震というのは不安感を煽り立てる。亮太郎はパートに出ている母親が自分のために帰ってこないだろうかと願った。地震は続いている。少しだけ、涙が出そうになった。
 長く続いた揺れも止まるときはピタっとやみ、テーブルの下から這い出てきて亮太郎は外の様子を窺ってみた。窓からは隣の家の庭が見える。隣のおじさんの姿がそこにあり、見知った顔を見たことで亮太郎の胸に安堵感が広がった。
 だが、どこか様子がおかしい。どうしたのだろう?
 亮太郎は乗り出すようにして、窓から庭にいるおじさんを見ていた。おじさんは苦しいのか、首を押さえるようにもがいている。先ほどまで赤くなっていた顔が、今度は蒼白に変わってきていた。
 何がなんだかわからないが、どうにも大変なことが起きているような気がして、無意識に亮太郎はグッと手を握り締めた。
 次の瞬間、おじさんの顔の皮膚の下で何かが蠢いているように見えて、亮太郎は怖くなった。するとおじさんの胸から何かが突き出てきた。黒い棒のようなもの。おじさんが胸を押さえると棒は消えていた。その代わり、今度は喉からそれが突き出した。そして顔からも。皮膚を突き破り、おじさんから血を溢れさせながら黒い棒が体内から飛び出している。なんだろう――このことは見てはいけない気がして、亮太郎は目を瞑った。
 数秒して、指の隙間からそっとおじさんの様子を窺う。おじさんの首から上は、もうおじさんではなくなっていた。おじさんの体内から皮膚を突き破って現れたらしい、巨大な蠅がヴヴヴヴヴヴという羽音を立てて、そこに乗っていた。
 恐怖は頂点に達し、亮太郎は大声で叫んだ。そしてカーテンを閉めて床にしゃがんだ。ヴヴヴヴヴヴヴヴという羽音だけが聴こえてきている。それが一瞬近付いたと思うと、音はどんどん遠ざかっていった。それでも亮太郎はその場に伏せたまま動くことはできなかった。

 ***

 どれほど時間が経ったかわからない。動けないまま、時間だけが進み続けているような気がする。延々と。終わりなく。気付けば喉が渇いていた。それを意識すると全身に一瞬で疲労感が拡がり、ベッドで横になりたいと思った。しかし、眠るわけにはいかないと亮太郎は頬をはたいて立ち上がり、水道の蛇口を捻ってコップに水を注いだ。荒々しく注がれた水は少し零れてシンクを叩く。亮太郎はコップの中の水をゴクゴクと飲み干した。
 恐怖で心臓は高鳴っている。何が起きたのか今もわからない。人が死んで、よくわからないものが現れた。それしか認識ができていない。
 まだ帰っていない母親に、亮太郎の不安感は高まっていた。時間の感覚がなく、母親が帰ってきているべき時間なのかどうかなのかもわからない。思考がうまく働いていなかった。
ドン、とどこの部屋からか物音がした。亮太郎の神経が敏感に反応する。ズル、ズルル、という床を擦れる音。無意識に脚が震えだす。涙が溢れてきそうだったが、亮太郎は必死に堪えた。腥(なまぐさ)さが鼻を突き、吐き気が込み上げそうになる。それなのに先ほど水を飲んだばかりにも関わらずもう喉がカラカラだった。
 ガラスの割れる音が響いた。亮太郎は思わず声を上げ、それから走った。玄関から飛び出す。――誰か助けて!
 外の世界は平常だった。何も異変は感じられない。車道を何台かの自動車が走っているのが見える。呆然としながら亮太郎は車道にふらふらと歩み寄っていく。騒音のようなクラクション。そこで亮太郎は意識を戻し、自分が車道の上に立っていることに気付いた。車がすぐそこまで迫ってきている。急ブレーキ。車は紙一重で亮太郎を避けて停まった。「おい、大丈夫か」と運転手らしき男が降りてきた。男は亮太郎に怪我がないことを悟ると大声で怒鳴った。「道路の真ん中を歩いて、なに考えてる!」
 恐怖で亮太郎は固まってしまった。謝らなきゃ、とは思うのに声が出てくれない。代わりに溢れ出るのは涙の方だった。
 男の手が亮太郎の頭に乗った。そして温かいものが亮太郎の頬を撫ぜる。それはぬるり、としていた。亮太郎は自分の頬を触り、手のひらを見た。そこには、べっとりと血がついている。
亮太郎は男を仰ぎ見た。男の首から上には何も無い。代わりに血が溢れている。男の頭はアスファルトの地面に転がっていた。
 残った男の体の背後で何かが動いた。それは数メートルもある巨大なカマキリだった。
 叫び声すら出なかった。ばたん、と男の体が地面に倒れる。恐怖。両の膝が笑っていた。ガクガクと震えるだけで言うことを聞いてくれない。逃げなきゃ!と思うのに体は動かなかった。
 カマキリの血に塗れた前脚(カマ)がゆっくりと動き出す。
 突然、亮太郎は走った。さっきまで固まっていた全身が嘘のように動く。全速力で走り続けた。後ろを見るのは怖いので振り向かない。走って走って走る。逃げなきゃ! それだけを思う。亮太郎は走った。無意識に 生きたい と思った。そう、願っていた。

 ***

 世界が暗転した。それは一瞬の出来事で、彼はもはやこれまでの日常が喪失(うしな)われたことを理解した。
 見たことのない怪物が街に蔓延り、人々を喰らう姿を目撃した。いずれ自分もあの中の“餌”のひとつになるのだろうか、と夢想する。
 彼は逃げ惑う人々を見下ろしていた。馬鹿なやつらだ、と思う。そして自分もそのうちのひとりであることを無意識下に理解しつつ、彼は魑魅魍魎が跋扈する街の闇に紛れていった。


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