MUKURO・煉獄篇-41 (Epilogue:黄昏)
瓦礫の山を乗り越えた亮太郎は、沈みゆく太陽を見た。
眼前では巨大な塔が逆光でシルエットとなって、亮太郎の前に立ちはだかる。黒に染まったその塔身は何か不気味なものを暗示しているように思えた。――それでなくとも、野坂の不在は亮太郎たちの先行きを暗くする。頼るべき支柱を失った自分らはこれからどこへ向かえばいいのだろう? 世界が変貌(かわ)ってしまってから、亮太郎はずっと野坂と一緒だった。
その野坂も死んだ。
黒く巨(おお)きな獣に、いとも容易く喰い殺されてしまった。
――ずっといてくれると思ってたのに。
目頭がカッと熱を帯びた。同時に父と母のことが脳裡を過ぎり、亮太郎の眼から涙が零れる。誰も彼もが死んでいった。きっと父さんも母さんもすでに生きてはいない。もしこの先生き延びたとして、そこで何が待っているというのか。――亮太郎の心はボロボロだった。極限の恐怖と緊張に晒され、多くの死を目の当たりにして、亮太郎の精神が限界でないはずがない。彼はまだ子供なのだ。本来ならば、誰かに護られて然(しか)るべき存在なのだ。
現実は、あまりに非情に、無力な子供を地獄に放り込んだ。
彼らが何をしたというのか。まだ生きる術(すべ)も知らず、抵抗する力もない。こんな地獄に投げ込まれるほどの罪すらないのに、これほどまで脆弱な存在を悪魔の前に差し出すとは、あまりに慈悲がない。現実は、彼らに無慈悲すぎた。
「行こう」
雄大がみんなに声をかけ、歩き出した。向かう先には、天上を突き破るほど高き塔。何があるかはわからないが、あの塔にまで行けばきっと何かある。そう信じて。
亮太郎はグッと歯を食いしばり、涙を堪える。
そして今、一歩踏み出し、みんなのあとを追って歩きはじめた。
眼前では巨大な塔が逆光でシルエットとなって、亮太郎の前に立ちはだかる。黒に染まったその塔身は何か不気味なものを暗示しているように思えた。――それでなくとも、野坂の不在は亮太郎たちの先行きを暗くする。頼るべき支柱を失った自分らはこれからどこへ向かえばいいのだろう? 世界が変貌(かわ)ってしまってから、亮太郎はずっと野坂と一緒だった。
その野坂も死んだ。
黒く巨(おお)きな獣に、いとも容易く喰い殺されてしまった。
――ずっといてくれると思ってたのに。
目頭がカッと熱を帯びた。同時に父と母のことが脳裡を過ぎり、亮太郎の眼から涙が零れる。誰も彼もが死んでいった。きっと父さんも母さんもすでに生きてはいない。もしこの先生き延びたとして、そこで何が待っているというのか。――亮太郎の心はボロボロだった。極限の恐怖と緊張に晒され、多くの死を目の当たりにして、亮太郎の精神が限界でないはずがない。彼はまだ子供なのだ。本来ならば、誰かに護られて然(しか)るべき存在なのだ。
現実は、あまりに非情に、無力な子供を地獄に放り込んだ。
彼らが何をしたというのか。まだ生きる術(すべ)も知らず、抵抗する力もない。こんな地獄に投げ込まれるほどの罪すらないのに、これほどまで脆弱な存在を悪魔の前に差し出すとは、あまりに慈悲がない。現実は、彼らに無慈悲すぎた。
「行こう」
雄大がみんなに声をかけ、歩き出した。向かう先には、天上を突き破るほど高き塔。何があるかはわからないが、あの塔にまで行けばきっと何かある。そう信じて。
亮太郎はグッと歯を食いしばり、涙を堪える。
そして今、一歩踏み出し、みんなのあとを追って歩きはじめた。
(to be continued to Part:Apocalypse...)
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MUKURO・煉獄篇-40 (魔界胎動/黒き犬Ⅴ)
爆発音が耳に響いた直後、野坂は亮太郎たちの姿を見つけた。
そして、彼らのいるすぐそばのビルが大きく崩れようとしていることも、また目にした。
建物が轟音をあげて崩れようとしている。
野坂は叫んだ。それが亮太郎たちに届いたかはわからない。彼は走った。持てる全ての力を解き放って疾走した。見えるもの全てがスローモーションになり、荒い緩やかに流れる時のなかを彼は駆け抜けた。亮太郎たちもまたビルの崩壊には気付いたようだ。亮太郎たちは逃げようと走り出していた。
手に持つ銃がやけに重く感じられ、それを捨ててしまいたい衝動に駆られたが、野坂はそれを抑え込んだ。銃を片手に走った。突き抜ける疾風を思わせる走りだ。身裡に火が点いたように熱かった。全身が燃える。沸騰しそうな血液が炎のように躰を駆け巡り、野坂を灼いた。灼かれながらも、彼は走った。走るしかなかった。がむしゃらに走り続けた。ビルの破片が地面を震わせた。すごい轟音だ。砂埃が舞い、視界が遮られる。また轟音がした。次々と降ってくる瓦礫が地面を叩いた。
強い衝撃が躰を襲った。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。気付いたときには、野坂は地面に倒れていた。腕が、ない。野坂は呆然としながらそれを見つめた。左の肩から先が、何もなかった。左腕があるはずの場所は虚空と化していた。
夥(おびただ)しい血がその場に溢れた。視線を上げると、黒い犬が目の前に立っていた。岩かと思うほど、巨きい。闇のように漆黒(くろ)く、どんな猛獣よりも巨大で、雄々しかった。隆々とした筋肉が大気を震わせている。一咆えするだけで、大地は揺さぶられそうだった。
漆黒き巨犬が呼吸をするたびに、熱い息が野坂の顔にかかった。
喰われた。左腕は、こいつに喰われたのだ。――それを理解した瞬間に、強い憤りを感じた。なぜこの化け物に、俺の腕を只で喰わせなきゃならんのだ!
烈しい憎悪が炎をとなって野坂の身裡で渦巻いた。――只ではやらん!
野坂はM9を拾い上げ、乱射した。反動で腕が震わしながら、狂ったように撃ちまくった。怒りに目を血走らせ、雄叫びをあげつつ引き鉄を引き続けた。弾が尽きると、腰の拳銃を抜いて撃った。
銃弾は巨犬の皮膚を貫き、肉にめり込んでいた。巨犬は咆哮をあげ、野坂から離れた。憤怒に刻まれた深い皺の奥で、黄色い双眸が光っている。巨犬もまた怒りに狂っていた。
残された銃弾は二発。野坂はありったけの集中力を使って照準を定めた。巨犬が咆えながら野坂に迫る。野坂は立て続けに引き鉄を引いた。銃口から銃弾が放たれ、空を切って真っ直ぐに進んだ。弾は巨犬の左眼を貫いた。
ぎゃおおおおおおおおん。
巨犬が啼いた。痛みに身を捩じらせた。
銃弾は尽きていた。野坂には、もう打つ手がなかった。片眼を潰された巨犬が彼に襲いかかろうとしたとき、彼には全てを受け入れる覚悟を決めていた。
巨犬の太い牙が野坂の躰をぼろ雑巾のように喰い千切った。
そして、彼らのいるすぐそばのビルが大きく崩れようとしていることも、また目にした。
建物が轟音をあげて崩れようとしている。
野坂は叫んだ。それが亮太郎たちに届いたかはわからない。彼は走った。持てる全ての力を解き放って疾走した。見えるもの全てがスローモーションになり、荒い緩やかに流れる時のなかを彼は駆け抜けた。亮太郎たちもまたビルの崩壊には気付いたようだ。亮太郎たちは逃げようと走り出していた。
手に持つ銃がやけに重く感じられ、それを捨ててしまいたい衝動に駆られたが、野坂はそれを抑え込んだ。銃を片手に走った。突き抜ける疾風を思わせる走りだ。身裡に火が点いたように熱かった。全身が燃える。沸騰しそうな血液が炎のように躰を駆け巡り、野坂を灼いた。灼かれながらも、彼は走った。走るしかなかった。がむしゃらに走り続けた。ビルの破片が地面を震わせた。すごい轟音だ。砂埃が舞い、視界が遮られる。また轟音がした。次々と降ってくる瓦礫が地面を叩いた。
強い衝撃が躰を襲った。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。気付いたときには、野坂は地面に倒れていた。腕が、ない。野坂は呆然としながらそれを見つめた。左の肩から先が、何もなかった。左腕があるはずの場所は虚空と化していた。
夥(おびただ)しい血がその場に溢れた。視線を上げると、黒い犬が目の前に立っていた。岩かと思うほど、巨きい。闇のように漆黒(くろ)く、どんな猛獣よりも巨大で、雄々しかった。隆々とした筋肉が大気を震わせている。一咆えするだけで、大地は揺さぶられそうだった。
漆黒き巨犬が呼吸をするたびに、熱い息が野坂の顔にかかった。
喰われた。左腕は、こいつに喰われたのだ。――それを理解した瞬間に、強い憤りを感じた。なぜこの化け物に、俺の腕を只で喰わせなきゃならんのだ!
烈しい憎悪が炎をとなって野坂の身裡で渦巻いた。――只ではやらん!
野坂はM9を拾い上げ、乱射した。反動で腕が震わしながら、狂ったように撃ちまくった。怒りに目を血走らせ、雄叫びをあげつつ引き鉄を引き続けた。弾が尽きると、腰の拳銃を抜いて撃った。
銃弾は巨犬の皮膚を貫き、肉にめり込んでいた。巨犬は咆哮をあげ、野坂から離れた。憤怒に刻まれた深い皺の奥で、黄色い双眸が光っている。巨犬もまた怒りに狂っていた。
残された銃弾は二発。野坂はありったけの集中力を使って照準を定めた。巨犬が咆えながら野坂に迫る。野坂は立て続けに引き鉄を引いた。銃口から銃弾が放たれ、空を切って真っ直ぐに進んだ。弾は巨犬の左眼を貫いた。
ぎゃおおおおおおおおん。
巨犬が啼いた。痛みに身を捩じらせた。
銃弾は尽きていた。野坂には、もう打つ手がなかった。片眼を潰された巨犬が彼に襲いかかろうとしたとき、彼には全てを受け入れる覚悟を決めていた。
巨犬の太い牙が野坂の躰をぼろ雑巾のように喰い千切った。
MUKURO・煉獄篇-39 (魔界胎動/黒き犬Ⅳ)
弾が尽きた。重機関銃の銃身は燃えるように熱されているだろう。野坂は立ち上がり、M9を手に取って走った。腰には9mm拳銃が差してあった。
亮太郎たちはどこへ行ったのだろうか。うまく逃げられたならいいが、向かった方向さえもわからなければ捜しようがなかった。自分がいなくても、彼らは逃げ延びられるだろうか……。
巨犬は相当なダメージを負っているようで、追ってくる様子はなかった。それでも、あれだけの銃弾を浴びて生きているのだから恐ろしいものだった。普通ならば、どんな動物でも死んでいるところだ。
野坂は駆けた。巨犬から距離を稼ぎたいという気持ちと亮太郎たちを早く見つけたいという気持ちがせめぎ合い、綯い交ぜになりながら渦巻いている。激しい運転と銃撃によって心身ともに疲弊していた。それでも気力を振り絞った。ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
そのとき、彼は爆発音を聴いた。
***
亮太郎たちはビルのなかに身を潜めていた。遠くで銃声が聴こえる。野坂が、あの巨(おお)きな黒い犬と闘っている姿が頭に浮かんだ。近くに野坂がいないことの不安が、亮太郎のなかで拡がっていた。きっと救(たす)けに来てくれると信じているが、それと同じくらい野坂のことが心配で堪らない。もし巨犬のあの太い牙にかかっていたら、野坂も一瞬で死んでしまうだろう。それを思うと心臓が止まりそうだった。
千紘は恐怖のあまり小さく震えているのがわかった。雄大もそれに気付いているらしく、そっと千紘の手を握っていた。裕隆は小さく丸まっていた。彼も恐くて恐くて堪らないのだろう。この場の誰もがそうなのだ。誰もが恐くて仕方がなかった。
不意に銃声がやんだ。
野坂が巨犬を斃したのか。それとも……。
心臓が高鳴り、血液を勢いよく全身に送り出していた。そのせいで鼓動が耳元で鳴っているような錯覚があった。
静けさがあたりを支配ていた。誰もが息を呑んで変化を待っていた。あるいは変化しないことを望んでいた。何かが起きて欲しいと願っていたし、何も起きて欲しくないとも思った。このまま何もなければいいのに……。そう千紘は祈った。裕隆も同じことを思った。雄大は変化に備えて身構えていた。
亮太郎は野坂に来て欲しかった。
「見に行ってみよう」
そう言ったのは雄大だった。雄大には人より少し勇気があり、いつも誰かを引っ張る役目を引き受けるのが彼だ。いまもそうだった。雄大の一言を実は誰もが望んでいた。
一同はそっと外の様子を窺った。化け物の姿は見えない。また野坂の姿もなかった。「出てみるか」
外も静かだった。
亮太郎は、銃を片手に歩く野坂を見つけ、声を出して呼ぼうとしたが一瞬ためらった。大声を出しても大丈夫だろうか……?
迷っているうちに、近くで爆発の轟音が鳴り響き、あたり一面が震えた。
亮太郎たちはどこへ行ったのだろうか。うまく逃げられたならいいが、向かった方向さえもわからなければ捜しようがなかった。自分がいなくても、彼らは逃げ延びられるだろうか……。
巨犬は相当なダメージを負っているようで、追ってくる様子はなかった。それでも、あれだけの銃弾を浴びて生きているのだから恐ろしいものだった。普通ならば、どんな動物でも死んでいるところだ。
野坂は駆けた。巨犬から距離を稼ぎたいという気持ちと亮太郎たちを早く見つけたいという気持ちがせめぎ合い、綯い交ぜになりながら渦巻いている。激しい運転と銃撃によって心身ともに疲弊していた。それでも気力を振り絞った。ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
そのとき、彼は爆発音を聴いた。
***
亮太郎たちはビルのなかに身を潜めていた。遠くで銃声が聴こえる。野坂が、あの巨(おお)きな黒い犬と闘っている姿が頭に浮かんだ。近くに野坂がいないことの不安が、亮太郎のなかで拡がっていた。きっと救(たす)けに来てくれると信じているが、それと同じくらい野坂のことが心配で堪らない。もし巨犬のあの太い牙にかかっていたら、野坂も一瞬で死んでしまうだろう。それを思うと心臓が止まりそうだった。
千紘は恐怖のあまり小さく震えているのがわかった。雄大もそれに気付いているらしく、そっと千紘の手を握っていた。裕隆は小さく丸まっていた。彼も恐くて恐くて堪らないのだろう。この場の誰もがそうなのだ。誰もが恐くて仕方がなかった。
不意に銃声がやんだ。
野坂が巨犬を斃したのか。それとも……。
心臓が高鳴り、血液を勢いよく全身に送り出していた。そのせいで鼓動が耳元で鳴っているような錯覚があった。
静けさがあたりを支配ていた。誰もが息を呑んで変化を待っていた。あるいは変化しないことを望んでいた。何かが起きて欲しいと願っていたし、何も起きて欲しくないとも思った。このまま何もなければいいのに……。そう千紘は祈った。裕隆も同じことを思った。雄大は変化に備えて身構えていた。
亮太郎は野坂に来て欲しかった。
「見に行ってみよう」
そう言ったのは雄大だった。雄大には人より少し勇気があり、いつも誰かを引っ張る役目を引き受けるのが彼だ。いまもそうだった。雄大の一言を実は誰もが望んでいた。
一同はそっと外の様子を窺った。化け物の姿は見えない。また野坂の姿もなかった。「出てみるか」
外も静かだった。
亮太郎は、銃を片手に歩く野坂を見つけ、声を出して呼ぼうとしたが一瞬ためらった。大声を出しても大丈夫だろうか……?
迷っているうちに、近くで爆発の轟音が鳴り響き、あたり一面が震えた。
MUKURO・煉獄篇-38 (魔界胎動/黒き犬Ⅲ)
LAVは限界に近い速度で車道を駆け抜けていた。エンジンが唸りをあげている。タイヤのゴムが熱でわずかに溶けた。
野坂は額に流れる汗も気にしている余裕はなかった。集中力の全てを注いでハンドルを握っていた。少しのミスが死に繋がる。
二匹の黒き巨犬は車体に喰いつくように速度を保って疾走(はし)っていた。恐るべきスピードとスタミナだが、巨犬もこのあたりが速度の限界らしい。それがせめてもの救いといえば救いだった。ただスタミナの方はどれほどなのか想像もつかない。野坂の背後から焦りの触手がじわりと全身を這い、彼の精神を蝕んでいた。
――もう限界だ。
LAVの速度が落ちた。野坂はこのままでは逃げ切れないと思い、スピードで振り切るのは諦めていた。カーウィンドーを下ろし、右手に握るM9の引き鉄を引いた。銃弾の雨が巨犬を襲う。ハンドルを回し、車の向きを変えた。もう一匹の巨犬と対峙する。アクセルを踏み込んだ。
黒き犬の巨体が車輛にまともにぶつかり撥ね飛ばされた。
野坂はM9を連射しながら、再びLAVを走らせた。ぐんぐんと速度をあげていく。今度は距離を稼げたはずだ。野坂はM9を助手席に放り、運転に集中した。
気がつけば塔が近くに迫っていた。近くで見るとさらに大きく見える。石造りだろうか。圧倒されるほどの巨塔であった。すでに丘に差し掛かっていて、緩やかな傾斜を走っていた。
これほどまで近付いてもいいのだろうか。
嫌でも不安を感じさせる雰囲気が、塔にはあった。
車内の誰もが轟く咆哮を耳にした。犬だ。犬の遠吠えに似ている。あの巨犬だろうか。野坂は小さく身震いをした。
前方に何かが見えた。迫ってきている。それは近付くにつれ輪郭をはっきりさせていった。――犬だ。巨犬だ。
さっきの二匹とは別の巨犬かもしれない。しかし、一匹でも脅威だった。その力は計り知れない。
野坂が叫ぶ。
「全員しっかり掴まっていろ!!」
車輛が横転した。強い衝撃が野坂を襲った。衝撃が収まったあとも軽く眩暈がした。
横転したのは、巨犬が正面からぶつかってきたせいだった。体当たりひとつで数トンもある車輛を軽くひっくり返す馬鹿力は恐るべきものである。まともに対峙したら数秒でぼろ切れになってしまうことは間違いない。人間が闘える相手ではなかった。
「みんな、大丈夫か……」
野坂の声かけに応答があった。どうやら全員無事のようだった。「急いで車を出て、逃げろ」
もう他の言葉は出なかった。逃げろ。それだけである。それしか、言うべきことはなかった。圧倒的な力を持つ犬の化け物がすぐそばにいるのだ。なす術(すべ)があるのかもわからない。
それでも野坂は銃を手に車を這い出た。89R――89式5.56mm小銃――を構えた。愛称はバディーであるが、野坂たちはハチキュウと呼んでいる小銃だ。89Rを構えながらあたりを見回した。巨犬の姿はない。
ぐるるるるる。
獰猛な唸り声はすぐ近くで聴こえた。巨犬は横転したLAVの上に乗っていた。素早く銃口を向け、野坂は引き鉄を引いた。89R の連射を受けて、巨犬が跳んだ。迅(はや)い。野坂がそれを目で追った。銃弾の雨を降らせているうちに、89Rの弾が切れた。
野坂は手榴弾を投げた。野坂の手元にある二種類の手榴弾のうち、衝撃波によるダメージを目的としたMK32A2手榴弾だ。もうひとつのM26手榴弾より飛び散る破片が少なく、より近距離向けの手榴弾だった。野坂は耳を塞いだ。それでも劈(つんざ)くような轟音があたりに響いた。ダメージがあったかわからないが、巨犬が距離をとった。つかさずM26手榴弾も投げた。爆発とともに金属片が四散し、そのうちのいくつかが巨犬の肉体にめり込んだ。有名な「パイナップル」に対して「レモン」と呼ばれることもあるM26手榴弾は爆発の際に飛び散る破片、その金属片によるダメージを目的としている。その効果が、巨犬にもあった。巨犬が怯んだのを野坂は見逃さなかった。
野坂たちの乗っていたLAVは小さな武器庫のようなものだった。載せれる限りの火器を積ませてある。野坂は重機関銃を取り出し、三脚を拡げた。伏せるように構え、巨犬目掛けて掃射した。連続して放たれる銃弾が巨犬の皮膚を突き破る。どうやら一定の効果はあるようだ。
野坂の隣に何かが転がった。LAM――110mm個人携帯対戦車弾だった。傍には亮太郎と雄大の姿があった。「馬鹿野郎! さっさと逃げろ!」
重機関銃を扱っている傍に寄るなんてどうかしている! それにすでにどこかに逃げているものだと思っていた。この子らはなにを考えているのか!
重機関銃の掃射をやめて、野坂は叫んだ。
「危ないから離れてろ。早くどこか遠くに逃げるんだ!」
野坂はLAMを拾い、巨犬を狙った。相手の動きは迅い。当たるかどうか。
ロケット弾が勢いよく発射され、巨犬に向かって宙を奔った。巨犬はそれを躱(かわ)したが、それでも弾頭は巨犬の近くに弾着して爆発した。全くダメージがなかったわけではないだろう。
野坂は再び重機関銃の銃把を握り締めた。
野坂は額に流れる汗も気にしている余裕はなかった。集中力の全てを注いでハンドルを握っていた。少しのミスが死に繋がる。
二匹の黒き巨犬は車体に喰いつくように速度を保って疾走(はし)っていた。恐るべきスピードとスタミナだが、巨犬もこのあたりが速度の限界らしい。それがせめてもの救いといえば救いだった。ただスタミナの方はどれほどなのか想像もつかない。野坂の背後から焦りの触手がじわりと全身を這い、彼の精神を蝕んでいた。
――もう限界だ。
LAVの速度が落ちた。野坂はこのままでは逃げ切れないと思い、スピードで振り切るのは諦めていた。カーウィンドーを下ろし、右手に握るM9の引き鉄を引いた。銃弾の雨が巨犬を襲う。ハンドルを回し、車の向きを変えた。もう一匹の巨犬と対峙する。アクセルを踏み込んだ。
黒き犬の巨体が車輛にまともにぶつかり撥ね飛ばされた。
野坂はM9を連射しながら、再びLAVを走らせた。ぐんぐんと速度をあげていく。今度は距離を稼げたはずだ。野坂はM9を助手席に放り、運転に集中した。
気がつけば塔が近くに迫っていた。近くで見るとさらに大きく見える。石造りだろうか。圧倒されるほどの巨塔であった。すでに丘に差し掛かっていて、緩やかな傾斜を走っていた。
これほどまで近付いてもいいのだろうか。
嫌でも不安を感じさせる雰囲気が、塔にはあった。
車内の誰もが轟く咆哮を耳にした。犬だ。犬の遠吠えに似ている。あの巨犬だろうか。野坂は小さく身震いをした。
前方に何かが見えた。迫ってきている。それは近付くにつれ輪郭をはっきりさせていった。――犬だ。巨犬だ。
さっきの二匹とは別の巨犬かもしれない。しかし、一匹でも脅威だった。その力は計り知れない。
野坂が叫ぶ。
「全員しっかり掴まっていろ!!」
車輛が横転した。強い衝撃が野坂を襲った。衝撃が収まったあとも軽く眩暈がした。
横転したのは、巨犬が正面からぶつかってきたせいだった。体当たりひとつで数トンもある車輛を軽くひっくり返す馬鹿力は恐るべきものである。まともに対峙したら数秒でぼろ切れになってしまうことは間違いない。人間が闘える相手ではなかった。
「みんな、大丈夫か……」
野坂の声かけに応答があった。どうやら全員無事のようだった。「急いで車を出て、逃げろ」
もう他の言葉は出なかった。逃げろ。それだけである。それしか、言うべきことはなかった。圧倒的な力を持つ犬の化け物がすぐそばにいるのだ。なす術(すべ)があるのかもわからない。
それでも野坂は銃を手に車を這い出た。89R――89式5.56mm小銃――を構えた。愛称はバディーであるが、野坂たちはハチキュウと呼んでいる小銃だ。89Rを構えながらあたりを見回した。巨犬の姿はない。
ぐるるるるる。
獰猛な唸り声はすぐ近くで聴こえた。巨犬は横転したLAVの上に乗っていた。素早く銃口を向け、野坂は引き鉄を引いた。89R の連射を受けて、巨犬が跳んだ。迅(はや)い。野坂がそれを目で追った。銃弾の雨を降らせているうちに、89Rの弾が切れた。
野坂は手榴弾を投げた。野坂の手元にある二種類の手榴弾のうち、衝撃波によるダメージを目的としたMK32A2手榴弾だ。もうひとつのM26手榴弾より飛び散る破片が少なく、より近距離向けの手榴弾だった。野坂は耳を塞いだ。それでも劈(つんざ)くような轟音があたりに響いた。ダメージがあったかわからないが、巨犬が距離をとった。つかさずM26手榴弾も投げた。爆発とともに金属片が四散し、そのうちのいくつかが巨犬の肉体にめり込んだ。有名な「パイナップル」に対して「レモン」と呼ばれることもあるM26手榴弾は爆発の際に飛び散る破片、その金属片によるダメージを目的としている。その効果が、巨犬にもあった。巨犬が怯んだのを野坂は見逃さなかった。
野坂たちの乗っていたLAVは小さな武器庫のようなものだった。載せれる限りの火器を積ませてある。野坂は重機関銃を取り出し、三脚を拡げた。伏せるように構え、巨犬目掛けて掃射した。連続して放たれる銃弾が巨犬の皮膚を突き破る。どうやら一定の効果はあるようだ。
野坂の隣に何かが転がった。LAM――110mm個人携帯対戦車弾だった。傍には亮太郎と雄大の姿があった。「馬鹿野郎! さっさと逃げろ!」
重機関銃を扱っている傍に寄るなんてどうかしている! それにすでにどこかに逃げているものだと思っていた。この子らはなにを考えているのか!
重機関銃の掃射をやめて、野坂は叫んだ。
「危ないから離れてろ。早くどこか遠くに逃げるんだ!」
野坂はLAMを拾い、巨犬を狙った。相手の動きは迅い。当たるかどうか。
ロケット弾が勢いよく発射され、巨犬に向かって宙を奔った。巨犬はそれを躱(かわ)したが、それでも弾頭は巨犬の近くに弾着して爆発した。全くダメージがなかったわけではないだろう。
野坂は再び重機関銃の銃把を握り締めた。
MUKURO・煉獄篇-37 (魔界胎動/黒き犬Ⅱ)
それは犬のようであった。色は漆黒(くろ)い。
何より強大な体躯だった。筋肉が隆々としていた。わずかに動くだけでも、筋肉が盛り上がり、その力強さを讃えた。闘牛のように引き締まった筋肉だ。見ているだけで迫力があった。見た目は犬であったが、イヌ科のどの動物よりも巨(おお)きい。イヌ科最大の動物はハイイロオオカミだが、それなど足元にも及ばない。虎や獅子といった大型の肉食獣よりもさらに巨きかった。まさしく熊のようなサイズであり、ヴォリューム感が野坂の目に迫った。
深く刻まれた皺が歪み、口元から太く鋭い犬歯が覗いた。
黄色い双眸が野坂を睨む。
野坂は力いっぱいアクセルを踏み込み、車を発進させた。
LAVが轟音をあげて駆け抜ける。
巨犬があとを追った。恐るべき速度だった。
全速力で走行しているはずのLAVのサイドウインドウから黒い巨体が並走しているのが見えた。オオカミは時速70キロで走ることができるが、目の前にいるのはそれよりも遥かに巨大な生物だ。常識的に考えれば、巨きいだけ遅い。しかしヒグマにも60キロ以上の速度で走るものがいる。そして相手はオオカミでもなければヒグマでもなかった。常識の通じない化け物なのだ。この化け物は、それ以上の迅(はや)さらしい。
スピードメーターは100キロ近くを指していた。LAVの4.5トンの車輛がそれだけの速度で走行しているだけで正気の沙汰ではない。だが、このままでは巨犬の餌食になってしまう。危険を承知で走るしかなかった。陸上最速を誇るチーターは100キロを超える速度で走ることができるが、巨犬もそれだけのパフォーマンスを発揮できるらしい。
問題は、その体力がどこまで保(も)つかだった。
速度で追いつかれても、それを維持できなければいずれ追い抜ける。生き残れるか否かは巨犬のスタミナがどれだけあるかにかかっていた。
相手は化け物だ。常識の範疇で考えることはできない。その体力は底なしかもしれない。――だが、野坂は化け物が不死ではないことを知っている。化け物は殺すことができる。やつらもまた生命体であり、ひとつの生物なのは明らかだった。であれば体力にも限界があるはずだった。そうであることを、願った。
野坂は速度を落として、車道を曲がった。横転しないかとヒヤヒヤしたが大丈夫だった。そして再び速度をあげた。
黒い影が視界の隅にちらつき、野坂は気が気ではなかった。まるで死そのものが迫ってきているように感じた。あるいは本当に地獄の猟犬が魂を狩りに現世に来たのかもしれない――と思った。
メーターは100キロを超えていた。LAVの性能ではこのあたりが限界だ。当たり前だが、これは速度に特化した車輛ではない。あくまで装甲車なのだ。装甲車が100キロを超える速度で車道を疾走する日が来るとは誰が予想しただろうか。少しでも気を抜けば車輛は簡単に横転するだろうことを考えると寒気がした。
車輛の右に犬の影が見えていたが、左側にも何かがちらついていることに気付いた。
――そんな馬鹿な!
野坂は心のなかで神を罵倒した。左にも巨犬が疾走(はし)っている。二匹の黒き犬が野坂たちを追っていた。
俺は、
俺たちは、
生き延びれるのか……?
何より強大な体躯だった。筋肉が隆々としていた。わずかに動くだけでも、筋肉が盛り上がり、その力強さを讃えた。闘牛のように引き締まった筋肉だ。見ているだけで迫力があった。見た目は犬であったが、イヌ科のどの動物よりも巨(おお)きい。イヌ科最大の動物はハイイロオオカミだが、それなど足元にも及ばない。虎や獅子といった大型の肉食獣よりもさらに巨きかった。まさしく熊のようなサイズであり、ヴォリューム感が野坂の目に迫った。
深く刻まれた皺が歪み、口元から太く鋭い犬歯が覗いた。
黄色い双眸が野坂を睨む。
野坂は力いっぱいアクセルを踏み込み、車を発進させた。
LAVが轟音をあげて駆け抜ける。
巨犬があとを追った。恐るべき速度だった。
全速力で走行しているはずのLAVのサイドウインドウから黒い巨体が並走しているのが見えた。オオカミは時速70キロで走ることができるが、目の前にいるのはそれよりも遥かに巨大な生物だ。常識的に考えれば、巨きいだけ遅い。しかしヒグマにも60キロ以上の速度で走るものがいる。そして相手はオオカミでもなければヒグマでもなかった。常識の通じない化け物なのだ。この化け物は、それ以上の迅(はや)さらしい。
スピードメーターは100キロ近くを指していた。LAVの4.5トンの車輛がそれだけの速度で走行しているだけで正気の沙汰ではない。だが、このままでは巨犬の餌食になってしまう。危険を承知で走るしかなかった。陸上最速を誇るチーターは100キロを超える速度で走ることができるが、巨犬もそれだけのパフォーマンスを発揮できるらしい。
問題は、その体力がどこまで保(も)つかだった。
速度で追いつかれても、それを維持できなければいずれ追い抜ける。生き残れるか否かは巨犬のスタミナがどれだけあるかにかかっていた。
相手は化け物だ。常識の範疇で考えることはできない。その体力は底なしかもしれない。――だが、野坂は化け物が不死ではないことを知っている。化け物は殺すことができる。やつらもまた生命体であり、ひとつの生物なのは明らかだった。であれば体力にも限界があるはずだった。そうであることを、願った。
野坂は速度を落として、車道を曲がった。横転しないかとヒヤヒヤしたが大丈夫だった。そして再び速度をあげた。
黒い影が視界の隅にちらつき、野坂は気が気ではなかった。まるで死そのものが迫ってきているように感じた。あるいは本当に地獄の猟犬が魂を狩りに現世に来たのかもしれない――と思った。
メーターは100キロを超えていた。LAVの性能ではこのあたりが限界だ。当たり前だが、これは速度に特化した車輛ではない。あくまで装甲車なのだ。装甲車が100キロを超える速度で車道を疾走する日が来るとは誰が予想しただろうか。少しでも気を抜けば車輛は簡単に横転するだろうことを考えると寒気がした。
車輛の右に犬の影が見えていたが、左側にも何かがちらついていることに気付いた。
――そんな馬鹿な!
野坂は心のなかで神を罵倒した。左にも巨犬が疾走(はし)っている。二匹の黒き犬が野坂たちを追っていた。
俺は、
俺たちは、
生き延びれるのか……?