みやび萬紅堂。
いらっしゃいませ。コメントはお気軽に。
褐色肌のヴィーナス
 鍋屋横丁を抜け、新中野駅の出入口から何人かが吐き出されるのを横目に歩き、僕は信号で足を止めた。女子高生3人組が背後を通り過ぎていった。斜め向こうに見えるパチンコ店の前にはものすごい台数の自転車が停めてあり、中には原付も混ざっている。それだけで店の盛況振りが窺えた。パチンコ店に世間の不況などは関係あるのだろうかといつも思う。たぶん関係ないんだろう。関係あるのはおそらく立地くらいだ。
 信号が青に変わる。
 中野通りを横断して、都道7号線を突き進む。しばらくすると右手に交番が見えた。警官は大きくあくびをしたあと、眠そうに目を擦った。平和だなあ、と僕は思い、再び視線を前に向け直した。歩みは止めていない。
 また少しだけ進んだところに、また右手に今度は鳥居が見えた。石製の鳥居。奥には小さな社殿が見える。鳥居の前にはバス停があり、中年の女性がひとりバスを待っていた。見回してみたがバスの姿は見えないので、少なくともまだ数分は、彼女はそこに立ったままだろう。
 次の信号で都道4号線を渡り、少しだけ戻って先ほどの神社の前に辿り着いた。そこには『西町天神北野神社』とある。一切の土地勘がない僕はここは西町なのだろうかと思う。そして鳥居をくぐって、水のない手水舎をスルーして、社殿の前に立つ。二度手を打ち合わせ、深く頭を下げた。拝礼の作法など知らないのでこれはてきとうだ。
 なんとなく満足して、再び都道4号線に戻り、それを突き進んだ。
 またまたしばらくするとアジアンテイストの小さな飲食店が目に入った。店先には象やらなんやら(もしかすればインドあたりの神様なのかもしれない)、実に怪しげな置物があり、店内の様子はよくわからない。入ってみようかな? そう思うと同時に、その店の隣のある横道が気になった。ここも実にアジアンテイストに溢れている(…とここまで思い、僕は日本もまたアジアだということを再認識した。正確には、僕の持つタイやインドあたりのイメージだった)。
 アジアン横道に足を踏み入れ、エスニックな布地などを扱った雑貨屋などを眺めながら僕は依然として進んだ。スパイシーな香りが漂ってくる。先ほどの飲食店からかもしれない。
 どうも民族衣装を着た人々が増えてきた。よく見ると日本人ではない。彼らはみな浅黒い肌をしている。急に異国にワープしてしまった気持ちになった。まるで別世界。ここはどこだ?
 聞いたこともない、未知の言語があたりを飛び交い、僕は眩暈すらした。
 ふと背後を振り返る。おかしい。見えるはずの都道4号線の姿がない。まさか本当に自分でも気付かぬうちに瞬間移動でもしていて、どこか見知らぬ(とりあえず日本ではない)土地に辿り着いてしまったとでもいうのだろうか。そんな馬鹿な!
 だが、しかしながら、確実に、どう考えても、ここは日本ではなかったし、ずっと歩いてきた都道4号線の姿も間違いなくそこにはなかった。これはどういうことなのか。
 でもそこで動揺を表に出さないのが自分のすごいところだと思っている。おろおろなどせず、先に進むことにした。もし本当にどこか異国の地(おそらくアジアのどこか)に瞬間移動、あるいはワープしてしまったのだとしたならば、それはそれで貴重な体験ではないか。瞬間移動、あるいはワープもそうだし、異国の地をこうして歩けることも実に貴重な体験だろうと自分を納得させる。こういう楽天的というか超ポジティヴ・シンキングなあたりは自分でもすごいと思う。僕はたまにそんな自分を本当に自分なのかと疑いたくなる。もしこれが他人ならば、お前それでいいのかと間違いなく言うだろう。
 気付けば人混みの中をかき分けながら進むことになっていた。あたりには様々な香の匂いが立ち込めて、混ざり合い、なんと表現すればいいのかわからないような臭気が出来上がっていた。その中を僕は進んだ。
 あるところで人混みが終わっていた。店もなくなっていた。目の前で細い道が交差している。左右にはモルタルみたいな質感の壁が空高くあり、僕はそれに囲まれていた。夕暮れのオレンジが視界を染めて、少しだけノスタルジックな気持ちになる。小道が交差しているところに僕は立ち、4つの道を眺めていた。そのうちのひとつに人がひとり立っていた。複雑な色の組み合わせで出来た布地の民族衣装をまとい、フードのように頭にも布を被っている。
 夕暮れのオレンジが視界を染めて、少しだけノスタルジックな演出をしている中に、褐色肌の彼女は立っていた。左右の巨大な壁に挟まれ、こちらを見ている。
 不意に湧き上がるこの気持ちはなんだ?
 知ってるようで初めての、新感覚の、気持ち。
 名前がわからない。
 曖昧になる世界の認識。
 彼女が微笑んだ。
 まるで一枚の絵画を見ているような心地になっていた。僕は必死に、僕は必死に、そこから何かを感じ取ろうとしている。あるいはこの気持ちの名前を知ろうとしている。
 もっと感じていたいと思った。
 この一瞬が永遠に続けばいいと思った。
 別世界のヴィーナス。
 たぶん元いた世界の言葉では形容できない。
 別世界のヴィーナス。
 僕は彼女をそう呼ぶことにする。
 別世界のヴィーナス。
 別世界のヴィーナス。
 夕暮れのオレンジがノスタルジックを演出していた。

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ガール・イズ・ダンサー・イン・ザ・ウエストゲートパーク
 東京は眠らないというのは少し嘘のことで、終電を過ぎれば街はいくぶんか静かになる。もちろんこの時間にも営業している店はたくさんあるし、ということは働いている人も大勢いる。それでも東京は眠る。人間だって眠っている間にすべての活動がストップしているわけじゃないように、東京もまたその活動が緩やかになっただけなのだと俺は思っている。
 先ほどまで酔っ払いが何やら意味不明の言葉を叫んでいたが、今はここも静かになった。そろそろここも眠りに就いたようだ。そう、池袋西口公園で俺は思った。
 今この西口公園は静かに活動していた。言い換えれば、緩やかに。
 まず、小さな鏡を見ながら頭髪を剃っているおっさんがいた。そして中東出身と思われる浅黒い肌のカップル。一匹の黒猫。毛並みはビロードのように滑らかで光沢があり、黒豹を思わせる気高さを放っていた。それからその数メートル先には酔っ払いすぎた結果、冷たく硬い地面の上で眠り始めてしまった中年サラリーマン。あと俺自身のことも忘れてはいけない。
 終電を逃した男女がタクシーに乗り込むのが視界の隅で確認された。
 タクシーは眠った街の中で最もよく働く細胞のひとつだ。夕方眠っていた運転手もここぞとばかりにむくりと身を起こし、終電を逃した客をすかさず拾い上げる。そして指定された場所まで彼らを運ぶ。先ほどは細胞と言ったが、タクシーは血液に似た役目を果たしている。眠っていても血液は巡るものだ。
 タクシーに乗り込んだ男女のことを考えてみる。
 彼らは恋人同士ではないと思う。そこまでの親密さは見えなかった。だが、お互いにある程度は気を許しあってるだろう。そうでなければこの時間まで一緒にいないだろうし、同じタクシーにも乗らないはずだ(純粋に金銭的理由からの行動ということも考えられなくはない)。おそらく、彼らは別のところで降りる予定なのだろう。しかし、先に自宅の近くに着いた彼女がドアから半身を出して、車から降りかけているときに言うかもしれない。「ウチに寄っていきませんか?」
 それは彼女にとって多少勇気のいる言葉だ。彼女は普段からそうして軽々しく男を部屋に上げるような女性ではない。だけど、彼ならいいだろう、そう思って彼女は誘う。「あの、ウチに寄っていきませんか?」
 幸い、明日は休日だった。2人とも特に予定もない。強いて挙げれば、彼は溜まっている洗濯物をそろそろ洗濯機に放り込み、洗濯洗剤と水でかき回し、途中で柔軟剤がそれに参加して、最終的にはびしょびしょと言わないまでも充分に濡れた衣類だけがそこに残る。それを手に取り、はたき、ハンガーにかけてぶら下げる。それを何度も繰り返さなくてはいけない時期だということくらいだろう。でも、それは後回しにもできる。だから彼は彼女の申し入れを素直に受け止めることだと思う。彼女は自分が軽い女ではないと、いつもこうしているわけではないというエクスキューズのためにこう付け加えるはずだ。「ここからタクシーで帰るより、ウチで始発を待って電車で帰った方が随分と安く済むはずだから」
 そこまで脳内で展開させたとき、目の前でミャアと鳴いた。現実に意識を戻すとそこには黒猫がいた。黒豹のような黒猫が。
 そして、白く細い脚も見えた。
 ――脚? 一体だれの?
 俺は顔を上げて、そして初めて彼女の存在に気付いた。細身で、たぶん黒髪で、小さな唇と小さな鼻とぱっちりとした二つの目。ロリピンクのワンピースを着た女の子。
 ――女の子?
 彼女は本当に女の子なのだろうか。見ようによっては自分と同じくらいにも見える。そして、自分より遥かに年上のようにも見えた。独特の、落ち着いた雰囲気をその瞳は放っていた。
 しかし、見た目は幼い。幼いといえば語弊かもしれないが、彼女は確かに童顔だった。
「なにか?」
 こちらをじっと見つめる彼女に俺は問う。返事はなかった。
 そして彼女は踊りだした。独特のリズムに乗って、確かに彼女は踊りだした。独自のステップで、彼女は彼女のダンスを始めた。それはクラシック・バレエにも似ていた(ちゃんとクラシック・バレエを見たことはない)。童顔の彼女は、何も言わず踊った。時に激しく、時に静かに。それは動脈と静脈を思わせる。まるで「生」そのものにも見える。彼女は呼吸をしていた。胸を膨らませて、肺を振り絞って。彼女は呼吸をしていた。
 そして彼女の踊りもまた呼吸をしていた。彼女と一緒に。彼女に合わせるように。彼女のダンスもまた呼吸をしていた。
 池袋西口公園に設置されている時計の針がこのときばかりは止まってしまっているのではないかと思った。彼女は時間を超えて踊っている。誰かが言うには時間と空間は同じものらしいから、彼女は空間も超えて踊っていることになる。そのダンスは時空を超えていた。時空を超えて、彼女は踊っていた。
 ついさっきまで熱い抱擁とキスをしていたはずの中東人カップルも今は彼女に釘付けだった。剃髪していたはずのおっさんもその手を止めていた。酔っ払いすぎた中年サラリーマンは相変わらず眠っていて(たぶんあとで家族に怒られるのだろう)、黒豹みたいな黒猫は姿を消していた。
 そして彼女は踊っている。
 その行為の放つエネルギーに、その踊りのエネルギッシュさに、俺の鼓動は熱く高鳴っている。脈が速くなっている。なんなんだ、この気持ちは。
 ふいに彼女の動きが止まった。
 数秒間閉じられたのち、ぱっちりとした両目が開いてそれがこちらに向けられた。
 中東人のカップルが彼女に拍手を送った。パチパチパチ。ブラボー! ファンタスティック! ○※$=▽×@!!
 最後はなんと言ったのかよくわからなかったが、たぶん彼らの国の言葉での最高の賛辞であろうことは安易に想像できた。
 俺も思わず短いながらも彼女に拍手を送った。
「……すごいね」
 彼女は何も答えない。
「ねえ、どうして踊ったの?」
 特に何かを考えての発言ではない。ふと零れ落ちた言葉だった。
「――どうして?」
「うん」
「どうしてって、それはあたしがあたしだから」
「きみがきみだから?」
「そう」
「それはどういう…」
「どうもこうもない。それだけの意味よ。あたしはあたしだから踊るの。だから踊ったの」
 なぜか、不思議と説得力があった。
 おそらく言葉そのものにではなく、彼女という存在に強い説得力があった。
「あなたは踊らないの?」
「俺?」
「そう。あたしはあたしがあたしだから踊るわ。だけどあなたは踊らないの?」
 どういう意味だろうか。
 今度はよくわからない。
「俺は、踊らないよ」
「じゃあ、何があなたがあなただと証明するの?」
 ……………。
 沈黙。
「あなたはあなたであるために何をするの?」
「……わからない」
「じゃあ、あなたは今なにをしてるの?」
「街が眠ってるのを見てる」
「そう。あたしは踊るわ」
 彼女は踊った。
 それは心臓のように力強く、生命を漲らせていた。
 しかし彼女は心臓ではない。
 彼女もまた、この街の細胞なのだ。
 東京も眠る。
 池袋も眠る。
 この西口公園だって眠る。
 だが、それと同じくらいそれらは力強く活動していた。
 それが彼女であり、中東人カップルであり、剃髪のおっさんであり、黒豹みたいな黒猫であり、タクシーであり、それに乗った男女であり、酔っ払いすぎたおっさんのことはよくわからないけれど、そして俺であるのだ。
 東京は眠る。
 池袋も眠る。
 この西口公園だって眠る。
 だが、それと同じくらいそれらは力強く活動している。いつだって。


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上野のパンダ
 1周34.5kmの円環を少なくとも3周は回り、少なくとも103.5kmを進んだ電車が、少なくとも87回目の停車をしてプラットフォームに横付けされた。少なくともここまでの時間は177分かかっているはずだ。しかし僕は少なくともあと3回はこの電車の停車に付き合っている。なので全体的にもう少しだけ数が加算されることになる。だが正確なことまではわからない。別に数えていたわけではないから。
 上野駅で降車したあと、上野公園に向かうつもりだった。だけれども気分は変わり、公園口からではなく正面玄関口から駅を出た。多くの駅が東西南北の名を出入口に使っているけれど、この上野駅にはそのような名の出入口はない。その理由が出入口の数が多くてわかりにくいからなのか、名付けた人が他と同じことを好かないへそ曲がりなのかはわからない。とにかく、僕が知っている中で東西南北の名が付いた出入口はなかった。あって東上野口くらいものだ。あ、西郷口もあったか。
 今日は朝起きてからずっと彼女のことを考えている。これはつまりSheという意味の彼女なのだけれど、だからといって恋人という意味の彼女と捉えてもらっても間違いではない。僕と彼女は恋人同士だからだ。
 彼女は平均よりも少し背が低く、それをコンプレックスに思っている。優しいブラウンの髪をしていて、ヘアスタイルはショートボブだ。いかにも可愛らしい。彼女は読書が好きだ。それは僕と共通の趣味でもある。映画を観ることも、音楽を聴くこともも、それから散歩が好きだということも、僕たちは共通していた。偶然に。そして必然に。
 僕たちは時間をかけて多くの本を読んだ。そして映画を観た。音楽を聴いた。天気の良い日には気の向くままに歩いたりもした。時には雨の日もあったし、風の強い日もあった。そうして僕たちは多くの時間を過ごした。そしていろいろなことを話し合い、さまざまな感覚を共有した。それはとても素晴らしいことなんだろう。
 だが、共通に流れた多くの時間は残酷な一面も持っている。あるいはそれは多くの恋人たちが突如として突き当たる壁なのかもしれないが、僕は彼女のことを好きなのかどうかがわからなかった。
 もちろん嫌いなわけではない。もちろん好意もある。そして愛情も確かに持っている。でも、だけれど、それでも確信が持てない――僕は彼女のことが好きなのだろうか?
 つまり、恋愛の対象として、心にときめきを抱いているのだろうかということなのだと思う。
 わからなかった。
 僕は多くの時間を彼女と過ごし、共有した。共通の愉しみもある。そしてこれからも多くの時間を彼女と過ごし、共有したいと思っている。共通の愉しみもあるから。
 それでも僕は彼女のことを好きなのかどうかわからない。愛しているのかわからない。つまり恋をしているのかがわからないということなのだと思う。そういうときめきをまだ抱いているのかがわからなかった。
 だから僕は一人でここに来た。
 だから1周34.5kmの円環を少なくとも3周は回り、少なくとも103.5kmの距離を進み、少なくとも87回の停車を経験して、少なくともそれにあと3回の停車をプラスして、少なくとも177分の時間をかけてここに来たのだ。そして全体的にもう少しだけ数が加算されることになるはずだ。
 まだ5月に入ったばかりだというのにこの日は猛暑で、すでに僕は汗を掻き始めていた。前方に見えるマルイの建物に引っ付いている電光のディスプレイによると気温は29度を超えていた。地球温暖化の影響はついにここまできたらしい。まだ5月に入って数日しか経っていないというのに。
 左に視線を移す。そして歩き出すことにした。
 つまり僕は浅草通りを稲荷町に向かって歩き出した。
 そして奇妙なものを目にする。
 というか、目にした。
 そこにいたのは白と黒のクマだった。モノクロームの、クマ。大きなパンダが歩道を我がもの顔で闊歩していた。パンダについては一切詳しくはないけれど、たぶん目の前のこいつは、きっとジャイアント・パンダだと思われる。理由は大きいから。
 昼間の浅草通りで、いかにも「問題ありません」といった風にジャイアント・パンダが闊歩していた。周りの人々はそれがさも当たり前のように振る舞っている。あたかもそいつがパンダではなく人間のような扱いだ。しかし、どう見ても、目の前にいるのはパンダである。
 しかし、どうしてこんなところにパンダが?
 ふと左に視線を移す。
 路地の向こうに台東区役所が見えた。中野区はあるのに、どうしてここを上野区にしなかったんだろう?などという考えがわずかによぎったが、今はそれどころではない。いや、でも、やっぱ上野って結構有名な地名だよなぁ、どうして上野区じゃないんだろ?
 しかしそのくだらない疑問も次の瞬間には消え去っていた。
 台東区役所の建物に大きな垂れ幕がぶら下がっていて、そこにはこう書かれていた。
『上野にパンダが戻ってくる!』
 ……いや、そんな馬鹿な。
 戻ってくるってそういう意味じゃないだろう。――それともそういう意味なのか? どこからかジャイアント・パンダが歩いてここまで来て、上野動物園に自ら足で入っていくということなのか?
 これは夢だと思いたいが、現実は否定できない。なによりこの暑さ。これが夢であるはずがない。本当に暑いんだから。まじで。
 そこでジーンズのヒップポケットが振動した。ヴァイヴレーションがメールの着信を報せてくる。僕はヒップポケットからケータイを取り出して、ディスプレイに目を向けた。彼女からだ。
 僕はメールの内容など無視して返信画面へと移した。そして途中まで打って、その画面を消した。そして短縮ボタンを押して、彼女に電話をかける。
「もしもし。どうしたの?」
「いま上野にいるんだけどさ、そこですごいことが起きた」
「なに?」
「きっと驚くと思う」
「そんなに驚くようなことなの?」
「とても」
「なあに、早く教えてよ」
 僕は深く呼吸をした。
「実は1周34.5kmの円環を少なくとも3周は回り、少なくとも103.5kmの距離を進み、少なくとも87回の停車を経験して、少なくともそれにあと3回の停車をプラスして、少なくとも177分の時間をかけて上野まで来たんだ。たぶん全体的にもう少しだけ数が加算されることになると思う。それから正面玄関口から駅を出た。マルイの建物にあったディスプレイには気温が29度を超えてることが示されてた。で、僕は浅草通りを稲荷町の方に向かって歩いたんだ」
「それで?」
「絶対に驚くと思うよ。もしかしたらきみは信じないかもしれない。僕の作り話だと疑うかもしれない」
「聞いてみないとわからないよ」
「あのね、それでね――」
 彼女は僕の話を信じてくれるだろうか。でも、重要なのはそんなことじゃないとわかっている。
 だから僕は見たままのことを、そのまま彼女に話す。
 そして彼女はどんな反応をするだろうか。それはあと10秒もしないうちにわかることだ。

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